ふるさとは遠くして木の芽

「往還記Ⅱ-鬼小町」


<歩々到着>−5


 明治34(1901)年7月、山頭火こと種田正一は、上京してすぐ、早稲田大学の前身、東京専門学校高等予科へ入学している。地方延着者たちの為の入学試験に合格して、この7月の入学となったようだ。時に数え20歳。
大学部の政治経済学科、法学科、文学科への志望によってクラス編成されていたが、彼は文学科を志望していた。
翌35(1902)年7月、予科を終えて、いよいよ大学部文学科に進学。同期生85名のなかには、小川未明などが居たとされる。
当時は、自然主義文学の勃興期であり、ゾラ、モーパッサンツルゲーネフらが学生たちの間で漁るようによく読まれていた。彼が早稲田在学時に書いたものは残されていないが、数年後に発表したツルゲーネフなどの小説の翻訳は現存している。

 在学中の消息は詳らかでない。学籍簿には「明治36年一年級未済」となっている。また、彼自身が後に書いた或る履歴書には「明治37年2月、疾病ノ為、退学ス」とある。
この病気というのは強度の神経衰弱だったとされ、その背景には実家の経済不安が主たる要因のようだ。
防府の実家では、明治37(1904)年に大種田といわれたその屋敷が二度にわたって売り払われている。屋敷まで切り売りするからには、広大な田畑は当然すでに売り尽くされていただろう。家からの送金は少なくとも滞りがちだったのではないか。学業を続けられず悶々とする日々のなかで、神経衰弱に陥っていったということか。


 時代は日清・日露の谷間の時代。帝国主義化を強めていく日本の、戦争前夜である。
日露協商交渉に頓挫した日本は英国と、明治35(1902)年1月、日英同盟を締結、ロシアとの緊張は一触即発の危機へと高まりつつあった。
翌36年(1903)5月22日、東京大学の前身である一高生の藤村操が「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。」と、巖頭の感と題する遺書を遺して、日光華厳の滝へ投身自殺をした。一高の英語教師であった夏目金之助(漱石)は生徒であった藤村の自殺に大いに衝撃を受け、漱石後年の鬱病の要因の一つとなったとも考えられている。
このロマンティックでセンセーショナルな投身事件は、当時の学生や青年たちの心を激しく捉え、その後の4年間に185名という多数が、彼と同じように華厳の滝へ投身するというほどの流行現象となった。
自殺に至らないまでも、いかに生きるかと煩悶する若者は多く、虚無感に捉えられ、神経衰弱に陥るというのが、当時のエリートたちの或るパターンを形成したとまでいわれるような風潮であった。


 明治37年(1904)2月、日本はロシアに宣戦布告、帝国主義化を加熱させ、刻々報告される戦況に湧きたつ世相を尻目に、同年7月、3年間の在京生活を文芸への志虚しく結果として無為のうちに過ごした正一は、ニヒリズムに捉えられた心の病も改善することなく、言い知れぬ挫折感を抱きながら、転落急な防府の生家へと帰参したのだろうか。


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