またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく

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−今日の独言−

 有終の美、岡田阪神のリーグ最終戦
今夜の試合が阪神の今季最終戦だったが、またも見事な試合で観客を魅了してくれた。
横浜を相手に、最多勝のかかった下柳が延長10回を投げ切って、鳥谷のサヨナラホームランで勝負を決めた。
すでにリーグ優勝して消化試合だというのに、4万7000人の観客を呑み込んだ雨の中の甲子園は沸きかえっていた。
岡田采配はほぼ完全に選手たちを掌握しきっているとみえる試合だ。
下柳に最多勝を取らせるべく、お定まりのJFK登板もせずに、勝利を呼び込むまでひたすら彼に投げさせ、チーム一丸の野球を見せた。
最後は劇的なサヨナラホームラン。これ以上の筋書きはないという最終戦
解説の吉田義男氏が、阪神70年の歴史のなかで、こんなに見事な最終戦はなかったんじゃないか、と言っていた。
さもありなん、Vを決めた瞬間とはまた違った、胸に熱いものがこみあげてくる、見事な有終の美だった。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−1>

 珠衣のさゐさゐしづみ家の妹にもの言はず来て思ひかねつも
                             柿本人麿

万葉集巻四、相聞歌としてある。歌の心は下の句にいい尽くしてあまりあるか。上の句の「珠衣−たまぎぬ−のさゐさゐしづみ」はその心の形容だが、語感が美しく、妻に対する想いがたぎるように表出されている。と同時に、妻なるその人の容姿や服装までがほうふつと浮かんでくるような趣がある。


 春日野のわかむらさきの摺衣しのぶの乱れかぎり知られず
                              在原業平

新古今集・戀一。「女に遣しける」の詞書。「伊勢物語」の冒頭、男が春日の里へ狩に出かけ、姉妹を見初める件で贈った歌。この姉妹は、山城の新都に移っていった親にとりのこされてこの春日に留まっていたとの設定。源融の「みちのくのしのぶもぢずり‥‥」の本歌取りとされるが、調べも美しく情趣も深いか。


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'68年の公演チラシ、右側が当時23歳の私


<行き交う人々−ひと曼荼羅>


堺市長選挙と長川堂郁子>

 本年2月、美原町との合併で人口83万人となり、15番目の政令指定都市をめざしている堺市市長選挙が先の日曜日(10/2)実施された。結果は前市長木原敬介氏が再選され、来年4月にも誕生するとされる新政令都市堺の初代市長として二期目の市政に取り組むことになった。
投票率は32.39%。 確定得票数は以下の通りとされている。
   当89741 木原 敬介 =無現<2>自・民・公・社
    59146長川堂いく子 =無新 共
    55028 森山 浩行 =無新
     8280 山口 道義

 この結果から、共産党推薦を受けた無所属新人長川堂いく子の得票が、善戦したと評価できるのかどうかは、以前の選挙結果などを分析してみないことにはなんともいえないし、私は堺市住民でもないから実感をともなう材料とてないので不問としよう。


 本名、長川堂郁子、舞踊家、旧姓は毛利。私からいえば5歳年少で、現在56歳のはずだが、その旧知の彼女が堺市長選に候補者として名乗りを上げたニュースに接して大いに驚かされた。肩書きは舞踊家とされていた、そう、その昔は同門の徒であった。
 彼女を語るには40年近く時計の針を戻さなければならない。5年という年月の差を隔て私と同じ高校を卒えて、ということは当時まだ師のK氏が現職の教諭だった、その薫陶とともに感化を受けて、K師主宰の研究所へ入門してきたのは’68(S43)の春だった。彼女と同期の者たちは何人か居た。いま思い出すだけでも、HK女、HH女の顔が浮かぶ、輝くばかりに生気をみなぎらせた18歳の少女たちの姿が。
 この頃の記憶がかなり鮮明なのは、その年の6月、以前にも書いたことのある、K師夫人の茂子さんと天津善昭そして私の三人が、むろんK師の勧めもあってのことだが、ジョイントのリサイタルで、些か大袈裟な謂いになるが作家デビューしたからである。劇場は大阪厚生文化会館、現在の森之宮青少年会館の大ホールだから、当時としては晴れの舞台ではある。三人三様でお互いが三つの作品を創りあげるのに悪戦苦闘した数ヶ月だった。先輩にあたる茂子・天津の二人はこれまでにも若干の制作経験があったからよかったろうものの、私にとってはまったく未体験の未知なる世界だった。作品構成を「吼えろ吼えろふくろう党」−これは10人ばかりの群舞、「蝕」−踊り手に茂子・天津にご登場願い、私とあわせてのトリオ、「灰の水曜日」−8人4組の男女によるものとしたが、たしか彼女たちには「蝕」以外の二つに踊ってもらったはずだ。いまはもうない浜寺青少年の家で三日間ほどだったか呻吟に喘ぐばかりの制作合宿をしたのも懐かしい。どんな題が冠せられたものだったか失念してしまっているが、天津作品のなかにデュエット構成の作品があり、これを踊ったのが私と彼女であった。記憶をたどれば、はじめ私の相手役を務めていたのは高校時代からすでに研究生として経験を積んでいたHKだったのだが、如何せんHKは身長170㎝の偉丈夫?、私が165㎝だったからどうにも釣合が取れず制作イメージが遠ざかる。という次第で技術より雰囲気とばかり、まだ少女然とした彼女に白羽の矢となったわけである。
 この抜擢がその後の彼女にとって幸いしたか否かは微妙なところだったろう。おそらく彼女は有頂天になるほどに舞い上がっていたにちがいないが、彼女持ち前の芯の強さや勝気な気質とあいまって、周囲の先輩や同僚たちには生意気な子と映ることもあったのではないか。私の知るかぎりにおいて、その後の長い道のり、彼女の研究所での位置は決して温かい場所に恵まれたものではなかったように思われる。だが、彼女はその長い年月をよく持ち応えてはきた。あくまで自分は自分、他人の評価を意に介せず、マイペースを貫いて、自分なりの舞踊家としての矜持を保ちつづけてきたのだろう。
 初めの出逢いから何年経ってか、彼女は結婚して長らく豊中に住んでいた。そういえばいつだったか偶々会った時に、「新婦人の会の人たちとダンス教室を開いて教えている」と、そんな話を聞いたことがあったっけ。彼女の主宰するグループ駄々はそんなところから出発している筈だ。自分なりの舞踊世界の構築とともに、新婦人の会を中心に市民運動的な活動にも執心し取り組んできたのだろうが、その点に関しては私はよく知らないままに年を重ねてしまったが、彼女もまた敢えてあからさまに報告する気になれなかったともいえそうだ。’89(H1)年の中国公演にだって一緒に行ったりしたのだし、多くはないとしてもそんな機会は何度かはあったはずだから。彼女が堺市へと転居したのはいつだったのか、手紙などのやりとりでわかってはいたが、それがまたいつのことやらはっきりとしない。岸和田の住民で、作曲活動をしているT氏から、「オペラの振付を彼女にして貰ったことがありますよ」と聞かされたのは、今年の「グランド・ゼロ」合同公演の稽古場でのことだ。
 そんな彼女、長川堂郁子が堺市長選挙に候補者として立ったというのは、意外や意外、驚き入ったニュースだった。私の知るところではなかったが、数年前から新婦人の会の堺支部事務局長を務めていたらしいし、政令都市をめざしてひたすら走る堺市政に反旗をひるがえす住民運動もいろいろとあったろうから、新鮮な女性候補として彼女が浮上してくるのも、成程ありえないことではないのだが、少女の頃から知る我が身には思いもよらぬ仰天の出来事だったのである。


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