こほろぎに鳴かれてばかり
−今日の独言−
ブロンボス洞窟の巻貝
南アフリカのブロンボス洞窟で発見された巻貝の貝殻は、7万5000年前近く前に人類がビーズ飾りを作るために孔をあけられ、最古の装身具だったと推測されている。孔のあいた貝殻ビーズのほかに、骨器で文様を掘られたオーカー(赤鉄鉱)など、お洒落の道具や贈答品として使った可能性のある道具が多く出土したという。これらの出土は既にこの頃より人類は象徴的思考能力を有していた証拠となるとノルウェーの考古学者ヘンシルウッドはみている。
考古学上は2003年、エチオピアで発見された化石から,現生人類はすでに16万年前に出現していたことが明らかになっていた。さらに今年2月には、エチオピアの別の遺跡で出土した化石の年代測定結果によって、は19万5000年前へと遡る可能性が出てきた。しかし,人類がいつ頃から現代人と同じような精神や高度な道具を持つようになったかについては、従来は約4万年前のことだろうと考えられてきたのだが、ブロンボス洞窟の出土類はこの時期を大きく遡らせることになる。
参照サイト−日経サイエンス「人類文化の夜明け」
<秋−7>
すみなれし人は梢に絶えはてて琴の音にのみ通ふ松風
藤原有家
六百番歌合せ、寄琴恋。平安末期、家隆、定家と同時代人。第二句の「梢」に「来ず」を懸けて、待つ恋の哀れを通わせ、下句「琴の音にのみ‥‥」と結ぶ味わいに「細み」の美を感じさせる。歌合せの右歌は慈円の「聞かじただつれなき人の琴の音にいとはず通ふ松の風をば」
入る月のなごりの影は嶺に見えて松風くらき秋の山もと
藤原定成
玉葉集、秋下。鎌倉時代、藤原北家世尊寺流、行成の末裔。玉葉集や風雅集の特色は、一首の核心を第四句に表して、風情の面目を一新する、という。この歌も第四句「松風くらき」が、月明りのすでに傾いた頃の闇深く、影絵となった山麓の松林という実景が心象風景ともなって幻視のごとく浮かびあがる。
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<人の欲望は他者の欲望である>
人間の欲望は、内部から自然と湧き上がってくるようなものではなく、常に他者からやってきて、いわば外側から人間を捉える。
だがこのことはけっして人間の主体的決定の余地を奪うものではない。人間の主体的決定は、まさに、この他者からやってくる欲望をいかに自分のものにするかということのうちに存するのだ。フロイトの発見した「無意識」とは、そのような主体的決定の過程において、いいかえれば、他者から受け取った欲望を自分のものに作り替えていく過程において、形成されるものにほかならない。
人が成長してゆくなかで、他者の欲望との出会いは繰り返される。人が幼少時から重ねてきたさまざまな決断や選択は、どれほどそれを自分自身で行ったと思っていても、実はもともと親や教師や友人といった他者から与えられたもの、あるいは伝達されたものにすぎない。だが、人はいつしかそれらの出会いを忘れてゆく。出会われた欲望がやがて忘れられてゆくのは、それが他のものに取り換えられるからである。一つのシニファン――というのも、他者の欲望は常に一つのシニファンのもとに出会われるだろうから――を他のもう一つのシニファンに取り換えること。ラカンは、フロイトの「抑圧」をこのようなシニファンの「置き換え」のメカニズムとして捉え直すのである。他者からやってきた欲望を抑圧することで、人はその上に自分の欲望を築いてゆくのであり、抑圧された他者の欲望は「無意識」を構成し、無意識において存続する。
このように、精神分析における「無意識」とは厳密には他者の欲望の場である。それは他者の止むことなき「語らいの場」である。先述のように、欲望はシニファンの連鎖によって運ばれるが、その連鎖が形作るものを名指すのに「語らい」ほど適した言葉はない。それゆえラカンは、「無意識は他者の語らいである」と繰り返す。主体が生まれる前から常にそこにおいて語らっていた「大文字の他者」は、この語らいが運んでいる欲望が主体のうちで抑圧され、無意識を構成するようになった後も、けっして語らうことをやめない。私たちに毎夜夢を紡がせるのは、まさにこの「他者の語らい」にほかならないのである。
――新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社 P43-45
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