月もいかに須磨の関守ながむらむ‥‥

980802-033

Information−Aliti Buyoh Festival 2006−

−今日の独言− 禰舞多−ねぶた

 東北を旅したのはもう何年も前のこと。都合3回行ったがいずれも夏の旅。
下北半島の恐山から津軽の青森へと移動して、棟方志功の美術館を観て、ねぶた会館へも立ち寄った。ねぶた祭りは残念ながら青森では見られず、代わって秋田のねぶたを見ることができた。
その郷土のねぶたをいくつも板画に描いた棟方志功の一文がある。ねぶたの世界を伝えてあまりある彼ならではの表現だ。


 男も女もない。老いも若いもない。幼も稚もない。
そんなものは禰舞多(ねぶた)の世界にはネッからハッから無いにきまっているのだ。
――前にかぶさり、カブサリ、左面はなびき、ナビキ、右はしなだり、シナダリ、後ろはかなしい、カナシイ――。なんとも言えない。
禰舞多は春−右面、夏−正面、秋−左面、冬−後面の宗教だ。禰舞多はそういう宗教になってしまった。
 そういう四季を連れづれにして運行連々されている。
春めき、夏めき、秋めき、冬になってこそ、禰舞多の魂ざらいがあるのだ。
 かぶさって重なるかぶさる正面があり、ほのぼのの左面があり、愁いの秋に深み、愛しい遠のいて行く冬裏があってこそ、禰舞多の身上なのだ。禰舞多の風流なのだ。
 何十挺の笛が、何台の太鼓が、出動全部の跳人の腰の鉦が、みんな鳴る。
吹く、打つ、叩くではなく、諸調子に鳴るのだ。
そういう、なんとも語り切れない本当の有様が遠ざかって行くのだ。
それを見送るというのか、見送らなくてはならない不思議なシーンとした、真空がなくてはならない。
地から、しのんで来るモノがこころにも身にも、沁み沁みして来るのだ。
淋しい、哀しいやり切れないいわゆる愛しい時、時だ。
真暗闇になったこの具戴天、足下からひろげられた倶跳地、その中間のただならない暗闇に、
あの禰舞多のうなりの様なオドロオドロが伝わって来る。
     ――棟方志功「ヨロコビノウタ」より


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−28>
 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ  柿本人麿

万葉集、巻三、雑歌。持統・文武朝の宮廷歌人。大和に生まれ石見国(島根県)に死んだといわれるが、詳らかにしない。万葉集長歌18首、短歌約70首。人丸集があるが真偽の疑わしい歌も少なくない。
邦雄曰く、現代人がはっと眼を瞠るような新鮮さを感じるのは「夕波千鳥」なる一種の造語風歌詞であろう。簡潔でしかも溢れる情趣は言い尽くし難い味わい。「古−いにしえ」一語にも、天智帝大津宮の面影をこめている、と。


 月もいかに須磨の関守ながむらむ夢は千鳥の声にまかせて  藤原家隆

壬二集、堀河院題百首、雑二十首、関。
邦雄曰く、須磨の関と千鳥も、源氏物語・須磨の「友千鳥もろ声に鳴く暁はひとり寝覚の床も頼もし」から、さまざまに詠われてきたが、家隆の新古今的技法を盡した一首は、すべての先蹤を捻じ伏せるかに妖艶である。初句6音の構えも、結句の断念に似た儚さも、ほとほと感に堪えぬ、と。


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