見てもなほおぼつかなきは‥‥

051127-014-1

−今日の独言− 檸檬

   春の岬 旅のをはりの鴎どり
   浮きつつ遠くなりにけるかも

三好達治の処女詩集「測量船」巻頭を飾る短歌風二行詩。
安東次男の「花づとめ」によれば、昭和2(1927)年の春、達治は伊豆湯ヶ島に転地療養中の梶井基次郎を見舞った後、下田から沼津へ船で渡ったらしく、その船中での感興であると紹介されている。
梶井基次郎三好達治はともに大阪市内出身で、明治34(1901)年2月生まれと明治33(1900)年8月生まれだからまったくの同世代だし、同人誌「青空」を共に始めている親しい仲間。梶井は三高時代に結核を病み、昭和2年のこの頃は再発して長期療養の身にあり、不治の病との自覚のうちに死を見据えた闘病の日々であったろう。「鴎どり」には湯ヶ島に別れてきたばかりの梶井の像が強く影を落としているにちがいない。

梶井は5年後の昭和7(1932)年、31歳の若さで一期となった。
奇しくも今日3月24日は梶井基次郎の命日、いわゆる檸檬忌にあたり、所縁の常国寺(大阪市中央区中寺)では毎年偲びごとが行われている。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−29>
 見てもなほおぼつかなきは春の夜の霞を分けて出づる月影   小式部内侍

後撰集、春下、題知らず。
生年不詳−万寿2年(1025)。父は橘道貞、母は和泉式部。上東門院彰子に仕えたが、関白藤原教通、滋井中将公成との間にも夫々一男をなしたといわれる。母に先んじて早世、行年25、6歳か。後拾遺集以下に8首。
邦雄曰く、秀歌揃いの続後撰・春下の中でも小式部の春月は、第四句「霞を分けて」が実に心利いた修辞。この集の秋にも「七夕の逢ひて別るる歎きをも君ゆゑ今朝ぞ思ひ知りぬる」を採られた、と。


 ほのかにも知らせてしがな春霞かすみのうちに思ふ心を   後朱雀院

拾遺集、恋一。
寛弘6年(1009)−寛徳2年(1045)。一条天皇の第三皇子、母は藤原道長の女・彰子、子に親仁親王(後の後冷泉帝)や尊仁親王(後の後三条帝)。関白頼通の養女嫄子を中宮とする。病のため譲位した後、37歳にて崩御する。後拾遺集初出、勅撰入集9首。
邦雄曰く、靉靆という文字を三十一音に歌い変えたような、捉えどころもなく核心も掴み得ぬ、そのくせ麗しい春の相聞歌。暗い運命を暗示する趣もあり、忘れがたい作、と。
靉靆(アイタイ)−雲や霞がたなびくように辺りをおおっているさま。


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