結びけむ人の心はあだなれや‥‥

Zintaisippaino

−表象の森− 「人体 失敗の進化史」のすゝめ

 著者の遠藤秀紀は、現役の動物遺体解剖の泰斗であろう。動物の遺体に隠された進化の謎を追い、遺体を文化の礎として保存するべく「遺体科学」を提唱する第一線の動物学者である。
この人の著書は初めて読むが、「人体 失敗の進化史」は決して奇を衒ったものではなく、専門の知を真正面から一般に判りやすく論じてくれた好著だ。
失敗ばかり、間違いだらけの進化史、その言やよし、ものごとはひっくり返してみるくらいの方がいいと常々私も思う。諸手を挙げて賛成だ。


「偶然の積み重ねが哺乳類を生み、強引な設計変更がサルのなかまを生み、また積み上げられる勘違いによって、それが二本足で歩き、500万年もして、いまわれわれヒトが地球に巣喰っているというのが真実だろう。」という著者は、本章の1・.2章で、耳小骨の話を軸に、爬虫類から哺乳類、さらにヒトへと、顎と耳の作り替えの歴史を、見事に具体的に語り、われわれヒトの手足が、3億7000万年の魚類の肉鰭へと遡ることをこと細かに解き明かしたうえで、「脊椎動物の多くは、設計変更と改造を繰り返した挙句、一皮剥がしてしまえば、滅茶苦茶といっていいほど左右非対称の身体をもつことになってしまったのである。その典型が哺乳類などの高等な脊椎動物の胸部臓器なのである。脊椎動物の5億年の歴史のなかで、我々ヒトの心臓や肺に見られるごとく、脊椎動物がどう酸素を取り入れて、血液を流すかという作戦は、身体の左右対称性を継ぎ接ぎだらけに壊しながら、改良に改良を重ねてきたものなのである。」という。もちろん、心臓や肺について、あるいは腰椎や骨盤について、いかに設計変更や改造をしてきたか、具体的な説明にはこと欠かない。


著者いうところの「前代未聞の改造(第3章)」が、ヒトのヒトたる所以の二足歩行であり、自由な手の獲得であり、直立したヒトの脳の巨大化であるのだが、一方でそれらは垂直な身体の誤算−かぎりない負の遺産を我々にもたらし、現代人の誰もが悩まされる数知れぬ慢性病として現前しているのだが、著者は「ヒトのトラブルの多くは、ヒト自身の設計変更の暗部であると同時に、ヒト自身が築いた近代社会が作り出す、予期せぬ弊害なのだ。」と説き、われわれホモ・サピエンスとは「行き詰まった失敗作(第4章)」であり、「ヒトの未来はどうなるかという問いに対して、遺体解剖で得られた知をもって答えるなら、やはり自分自身を行き詰まった失敗作と捉えなくてはならない。」と結論づけている。


年間200から500頭の動物の遺体を、毎年のように、解剖し標本にしてきたという著者は、終章において、自ら立ち上げた「遺体科学研究会」の名で、動物の献体を声高に一般市民に呼びかけている。
行政改革の大号令のもと、全国各地の動物園や博物館には指定管理者制度の導入や民営化の嵐が襲い、著者の遺体解剖の現場も研究も、現状を維持していくことがより困難になりつつあるのだから無理もない。


最後に、これは著者には関わり合いのないことであろうけれど、遺体・献体の話題といえば、この数年、日本の主要都市で連続的に開催され、多くの観客を集め注目されている「人体の不思議展」について、嘗て私は「学術に名を借りたいかがわしい見世物」と批判しているのだが、是非にもご意見を拝聴したいものである。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−51>
 わが涙つゆも散らすな枕だにまだしらすげの真野の秋風   後嵯峨院

拾遺集、恋一、忍恋のこころを。
真野−近江国の歌枕、真野の浦とも。現・大津市堅田町真野界隈、真野川が琵琶湖に注ぐ下流域一帯。
邦雄曰く、藤原為氏撰進の続拾遺集には、「寄月恋」の題でいま一首、「いとせめて忍ぶる夜半の涙とも思ひも知らで宿る月かな」が並び、秋月と秋風に寄せての思いであろう。真野の秋風のほうが遙かに綿々たる情を盡している。禁止命令形二句切れの切迫した抒情が、読者を一瞬釘づけにする。「知らず」の「白菅」の、風に靡くさまが眼に浮かぶところも心に残る、と。


 結びけむ人の心はあだなれや乱れて秋の風に散るらむ   伊勢

伊勢集、扇のみだれたるに。
邦雄曰く、宮廷女房たちが使っていた衵(アコメ)扇の親骨に結ぶ飾り紐の乱れに寄せての、婉曲な託言であろう。玉結びと魂結びを、歌の深いところで懸詞風に連想しても面白い。また檜扇には花野や秋草を描いたものも多いが、第五句を導き出す所以である。秋の風は勿論、愛情が移ろい「飽き」に変わる謂であり、花野の夕闇に舞い、散ってゆく秋の扇が見える、と。


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