わが恋は絵にかく野べの秋風の‥‥

Ohtsu_041

−表象の森− 折口信夫死者の書」と「大津皇子−鎮魂と飛翔」


9月3日は迢空忌だったそうな。
昔、釈迢空こと折口信夫の「死者の書」に材を得て創った舞台が、82(S58)年秋の初演と翌年春の再演、「大津皇子−鎮魂と飛翔」であった。
但し初演時のタイトルは、「大津皇子−百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや」とやや長いもの。
それより前に神澤の研究所を辞していた後輩の玉木謙三を迎えて舞の軸に据え、私が語りの演者を、演奏は関西におけるパーカッションの第一人者として活躍する北野徹氏が快諾して付き合ってくれた。
※ 写真は女装の玉木謙三の舞、場面は「二上山の章−幻影的な旅」より。


幻想文学の珠玉の一篇としてだれもが数えあげる折口信夫の「死者の書」は、二上山麓の当麻寺に残る曼荼羅を織ったとされる中将姫伝承に想を得て成ったものだが、加えて冷泉為恭の筆になるという「山越阿弥陀図」のイメージが、その構想にたしかな輪郭を与えている。
その「死者の書」の書き出しの部分を、ほとんどそのまま語りとして牽かせてもらった。
無量の闇に谺する、折口信夫の詠唱の文体を、まずはご賞味あれ。


 彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。
 まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、
 目のあいて来るのを、覚えたのである。
 した した した。
 した した した。
 耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。
 ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。
 膝が、肱が、徐ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、
 全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、
 掌・足の裏に到るまで、引き攣れを起しかけているのだ。
 そうして、なお深い闇。
 ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、
 まず圧しかかる黒い巌の天井を意識した。
 次いで、氷になった岩牀。
 両脇に垂れさがる荒石の壁。
 したしたと、岩伝う雫の音。
 時がたった――。
 眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。
 長い眠りであった。
 けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。
 うつらうつら思っていた考えが、現実に繋って、
 ありありと、目に沁みついているようである。
 ああ、耳面刀自。
 おれはまだお前を‥‥思うている。
 おれはきのう、ここに来たのではない。
 それも、おとといや、其さきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してな いのだ。
 おれは、もっともっと長く寝て居た。
 でも、おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。
 耳面刀自。
 ここに来る前から‥‥ここに寝ても、‥‥
 其から覚めた 今まで、一続きに、一つ事を考えつめて居るのだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−53>
 秋の夜はうつつの憂さの数そへて寝る夢もなき萩の上風   宗尊親王

瓊玉和歌集、秋上、人々に詠ませさせ給ひし百首に。
邦雄曰く、「萩の上風」も「萩の下露」とともに数世紀歌い古されてきた常套歌語であるが、この「夕萩」の錯綜した味わいは、ちょっと類がない。秋の夜の物憂さは、現実の憂愁を加えて、夢も見ぬという。幻滅感を冷やかに吹き荒らす秋風。宗尊親王はなかなかの手練れ、時として新古今調を今一歩進めたかの、冴えた技巧を見せ、これも好個の一例である、と。


 わが恋は絵にかく野べの秋風のみだるとすれど聞く人もなし   殷富門院大輔

殷富門院大輔集、絵に寄す。
邦雄曰く、六百番歌合にも「寄絵恋」はあったが凡作ばかりで、そのくせ趣向を凝らすのに大童だった。大輔は大胆に自らの恋は絵空事だと宣言して歌い始める。「絵に描く野べの秋風の」と自然に「みだる」の序詞風に仕立てて「忍恋」の悲しみをもって結ぶ。作り物ではあるが、むしろそれを前提として、ねんごろな修辞を盡すあたり、老練である、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。