身を秋の契りかれゆく‥‥

0412190461

−表象の森− フロイト=ラカン:「享楽」⇔「快原理の彼岸」
    ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


「享楽」⇔「快原理の彼岸」

ラカンの「享楽」は、18世紀末にカントとサドによって方向づけられた「悪(苦痛)の中の幸福」という倫理的モチーフにその原型をもつ。
「享楽」は本来、主体にとって根源的に禁止されたものであり、この禁止を「去勢」という語で指し止める。
「去勢というものが意味しているのは、享楽は拒絶されねばならず、それによってはじめて享楽は欲望の法の逆立ちした尺度にもとづいて獲得されうる。」
「欲動の満足」としての享楽は、法の(欲望の従うべき規範)によって禁止される以前に一つの「不可能」として出会われる。
法は、この禁止を犯せばそれを手に入れることができる、という錯覚を私たちに与える。
すなわち、法に対する逸脱のなかに、したがって悪のなかに、私たちの満足がありうる、と夢見させる。
私たちの欲望は、このような錯覚を本来的に宿しているがために、袋小路に入り、しかもそれを見誤るのである。
言語を媒介とすることで、私たちはそれらの物の完全な享有を断念することを余儀なくされる。
「享楽」は「快」に対立し、その「彼岸」を構成するが、それはフロイトの「快原理の彼岸」とされたものである。
一次過程における無意識の表象の連鎖をまさに「シニフィアンの連鎖」と位置づけるラカンにとって、快原理はこの連鎖を支配するもの、すなわち「象徴界の法」と同じ次元にある。
快原理の彼岸を構成する不快は「反覆強迫」として出会われる。
「反覆強迫」は、それによって脇へ押しやられる快原理以上に、根源的で、元素的で、欲動的である」という着目から、フロイトは「死の欲動」の概念を導入する。
ラカンは、快原理の彼岸を構成するこの「欲動的なもの」の次元に、シニフィアンによって到達不能な「享楽」の場を重ねる。それは「現実界(現実的なもの)」の領域である。象徴界を住処とする主体は、それゆえ享楽から決定的に隔てられている。
「出会いそこない」という形においてであれ、あるいは症状の苦痛においてであれ、主体は象徴界に穿たれた穴の向こうで現実界と関係をもち、精神分析の中でその関係について話す。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−83>
 身を秋の契りかれゆく道芝を分けこし露ぞ袖に残れる 後崇光院

沙玉和歌集、応永二十三年三月盡に、秋恋。
邦雄曰く、枯れゆく道芝と離(カ)れゆく契り、袖に残る露は身の秋を悲しむ涙、季節の凋落とわが身の衰頽を二重写しにする技法は、15世紀に入ってなお複雑化しつつ、秀歌を生んでいる。「身を秋の」は、作者の好む用語である。この年9月盡しの「長月や末葉の萩もうちしをれあはれをくだく雨の音かな」も、その第四句の秀句表現に、壮年の実りを感じる、と。


 笹の葉を夕霧ながら折りしけば玉散る旅の草枕かな  待賢門院安芸

千載集、羇旅、崇徳院に百首の歌奉りける時、旅の歌とて。
邦雄曰く、秋の夕暮の、さらぬだに寂しい旅寝に、露置けばおのずから頬を伝い、袖に玉散る涙。、人恋しく都懐かしい女ひとりの涙を、このほそぼそとした調べは暗示している。千載集の旅の歌は、花野の霜枯れや更級の月と並べて、安芸の夕暮を選んでいる。この集に入選4首、いずれもあはれ深い流麗な歌であるが、「玉散る旅の草枕」が代表作と思われる、と。


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