ぬばたまの黒髪濡れて泡雪の‥‥

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−表象の森− くるみ座の解散

劇団くるみ座が今年の3月でとうとう解散するという。
創立者毛利菊枝が’01(H13)年に逝ってなお辛うじて命脈を保ってきたものの刀折れ矢尽きたもののようだ。
毛利菊枝といえば、昭和20年代、30年代、邦画界にあっては存在感ある脇役として欠かせぬ女優で、とりわけ東映時代劇華やかなりし頃の、老婆役となれば決まって登場する彼女の小躯に似合わず野太いよく透った声が、子ども心に強烈に印象づけられたものだ。
毛利菊枝(1903−2001)は戦前の築地座にも所属し、岸田国士に師事していたというから、山本安英(1906−1993)や杉村春子(1906−1997)と同世代で、新劇の草分け的大女優だ。美術史家であった夫の京大赴任に伴って京都へと移ってきた彼女は、学者や劇作家たちの勧めもあってすぐにも毛利菊枝演劇研究所を発足させている。
これが後にくるみ座となるのだが、1946(S21)年というから戦後の混乱期に生れ、小なりとはいえ関西にあって、田中千禾夫ら劇作派の作品上演などセリフを重視した芝居づくりや、周辺に山崎正和や人見嘉久彦・徳丸勝博などの劇作家を輩出させるなど、独特の矜持をもって戦後の新劇界にその存在を誇示してきた劇団で、現在では文学座俳優座に次ぐ古参となる。
映画界では個性的な脇役として重宝された北村英三も創立当初から毛利菊枝に師事、後に演出家としても手腕を発揮するようになる30年代、40年代のくるみ座は、毛利菊枝自身が主演する作品や、ギリシア悲劇の連続上演などで、格調ある舞台づくりを誇っていた。
たしか大阪芸術大学の演劇科創設当初は北村英三が主任教授として迎えられたのではなかったか。


大女優・毛利菊枝とはついに直々の御目文字を得なかった、いや正確に言えば遙かな昔、此方が弱冠19歳の時に唯一その機会があったのだが、好事魔多し、惜しくもすれちがってしまい機を逸したまま以後縁がなかったのだが、北村英三さんとは神澤の縁で幾度かご一緒したことがある。
舞台ではあの濁声を独特の抑揚にのせて客席を圧する彼も、素顔は心優しい好々爺そのもので、ひとたび酒が入れば些か絡み癖ながらも愉しい御仁であった。
同じ京大の国文科同士、たしか神澤より7、8歳年長の北村英三さんがいつ逝かれたのだったか、記憶をたどるもどうにも思い出せない。敬愛する師毛利菊枝より先んじて逝かれたのは確かだが、相愛の師弟のあいだで、先立つ者と遺される者との逆縁に、ともに去来したであろう想いはどんなものであったろう。
Netを探りたどってやっと判ったが、北村英三さんの没年は1997(H9)年とあった。1922(T11)年生れだから享年75歳。晩年は引退して静かに余生を送っていたという毛利菊枝は4年後の’01(H13)年に静岡の病院で亡くなっている。享年97歳という長寿は女優としての弛まぬ鍛錬と節制の賜だろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−42>
 忘れずよその神山の山藍の袖にみだれし曙の雪  飛鳥井雅有

隣女和歌集、四、冬。
1241年(仁治2)−1301(正安3)年、蹴鞠の家として名高い飛鳥井家の嫡流、正二位。定家の二男為家に古今集源氏物語を学ぶ。家集「隣女集」は2600余首を数え、続古今集初出、勅撰入集は72首。
邦雄曰く、作者が賀茂の臨時祭の舞人を勤めた時、あたかも雪の降ったことを思い出しての歌という詞書がある。新古今・神祇の俊成「月冴ゆる御手洗川に影見えて氷にすれる山藍の袖」を本歌としたのであろう。俊成は氷、雅有は雪、この歌の冷え冷えと華やぐ感じもまたひとつの味である。新古今歌人、蹴鞠の名手雅経の孫。源氏物語の研究家でもある、と。


 ぬばたまの黒髪濡れて泡雪の降るにや来ます幾許恋ふれば  作者未詳

万葉集、巻十六、由縁ある雑歌。
幾許(ここだ)−こんなに多く、こんなに激しく、の意。
邦雄曰く、公務を帯びて旅立った新婚の夫は年を重ね、新妻は病の床に臥した。やっと帰還した夫を迎えて妻はこう歌った。息せき切ってたどりついた若い夫の髪が雪に飾られ、額は雫し、眸は燃えている。感動的な一場面が初々しい修辞の間から浮かび上がる。夫の歌は「かくのみにありけるものを猪名川の沖を深めてわが思へりける」とあり、遙かに響きが低い、と。


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