狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉

Db070509t105

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

−表象の森− 連句の世界

塚本邦雄による、曰く「白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった」とされる「清唱千首」-冨山房百科文庫-から、毎回2首を採りだし邦雄の解説とともに書き留めてきたのも500回を数え、前夜でようやく終えたことになる。
つづいてなにを採り上げるべきかと、いくつか思いめぐらせてみたが、わが四方館の身体表現、その即興のPerformanceを「連句的宇宙」などと事大に形容して憚らぬ厚顔の輩なれば、やはりここは一番、蕉風連句の世界にしくはないと思い定めた。
その昔折々に読んだ安東次男氏の「芭蕉連句評釈」-講談社学術文庫刊の上下本-をテキストに引いてゆくことになるが、この詳細な解釈・評言から要の部分を点描するのは、なかなかに骨も折れようし、浅学のわが身には荷が重すぎること必定、とんだ見当違いを犯すこと度々になるやもしれず、なにかと失笑やら叱責を買うことになろうが、そこは誰のためのものでもない、なによりこの痴れ者が手習いの忘備録、ここは恥も外聞もなく開き直ってはじめるより外はない。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−01
この歌仙は、貞享元(1684)年10・11月、「野ざらし紀行」中の芭蕉を迎えて名古屋で興行された「冬の日−尾張五歌仙」所収の最初の巻である。
この時、芭蕉41歳。他の連衆は、野水(ヤスイ)27歳、荷兮(カケイ)37歳、重五(ジュウゴ)31歳(?)、杜国(トコク)28.9歳(?)。


  狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉   芭蕉

前書に「笠は長途の雨にほころび、帋子(紙子)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才子、此国にたどりし事を不図おもひ出て、申し侍る」と。

次男曰く、藤原定家建仁元(1201)年)千五百番歌合に出詠の恋歌
「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の下露」
まず初句切れに詠み起こし、秋に飽き、木枯しに焦がらし、杜には守を掛けて、こがらしの杜は駿河の国と歌枕に聞かされているが、凋落の杜を守る下露のような自分には、それどころではないと、云回しの曲を尽くしている。
歌枕に面影をとどめて跡絶えた、由緒ある恋の詞を芭蕉が、知らなかったなどということはありえない。再興してみたい、とも俳諧師なら当然思うはずだ。
「こがらしの、身は竹斎に似たる哉」、「こがらしの身は、竹斎に似たる哉」、両方に読ませるところが俳句という形式の面白さで、前なら「こがらしや身は竹斎に似たる哉」と言っても同じだが、後の方は自ずと二義にわたる。それを利用して、恋ならぬ、句の道に痩せると知らせたければ、「狂句こがらしの身は」としか云い様があるまい。
さらには、仮名草子「竹斎」の諸板に見える
「無用にも思ひしものを薮医師(クスシ)花咲く木々を枯らす竹斎」という戯れ歌
芭蕉は、この戯れ歌を目当てとしたか、なれば「むかし狂歌の才子、国にたどりし事を不図おもひ出て、申し侍る」と、ことわったうえで句を以て名告りとしたのであろう。
そこに気がつけば、私も竹斎同様にあたら花のある木々(あなたがた)を枯らしかねない、という虚実含みを利かせた謙退の挨拶も自ずと読み取れるはずだ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。