わがいほは鷺にやどかすあたり

Rasenkan

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

−表象の森− 多和田葉子とRASENKAN

螺線館の嶋田三朗が市川ケイととりのかなの「三人関係」で活動の場を世界へと求めて旅立っていったのは89(S64)年からで、もうかれこれ20年になる訳だ。
昨夕、その嶋田君と市川さんの二人と、小嶺由貴を交えた4人でゆっくりと話し込む機会を得た。彼らとともに合同公演として取り組んだ「空を飛んだ鶏と銀色の松ボックリ」が83(S58)年のことだったから、まさに四半世紀を経ての語らいか。

もちろんこの25年の間、お互いにまったく疎遠であったわけではない。彼らの舞台でいえば、たしかウィングフィールドだったと記憶するが、近松世界を寓意化したかのような芝居を観ているし、ドイツに住んで日本語とドイツ語で小説をものする多和田葉子が彼らのために書き下ろした戯曲「サンチョ・パンサ」の上演が、OBP松下IMPホールで行われた際にも出かけていっている。彼らのほうも帰国した折には、私らの公演に二度、三度とひょっこり顔を見せてくれていたのだから。
彼らは2月初旬にはまたドイツへ戻るという。やはり多和田葉子が書き下ろした新作「出島」のベルリン公演を控えているからだ。


作者の多和田葉子自身がベルリンでの「サンチョ・パンサ」観劇記にこう記している。
「自分は本来、演劇そのものに関係のある作家ではないという気がいつもしていた。それでもこれまで何回か演劇プロジェクトに関わってきたのは、小説にも内容だけでなく音と文字という言語身体があるように思えてならなかったからだ。つまり、ジャンルとしての戯曲を選んで書いたわけではなく、どんなテキストにも声や動きになりたがっている部分があるという意識から戯曲を書いた。それをよく理解してくれているらしいらせん館は、わたしにとって舞台動物であると同時に読書集団でもある。」

「今回の公演における言葉の変身術では、スピード調節、断片化、繰り返し、などの音楽的要素の他に、母国の異なる俳優のそれぞれが、自分の故郷の言語だけを話すというのではなく、ドイツ語をしゃべり、更に日本人がスペイン語を話したり、他の人たちが日本語を話したりもした。もしもそれぞれが自分の言語だけを話していたら、アイデンティティ押し付けの民俗劇に似てしまう危険もあっただろう。しかし、この演出では、ルーツを探しているわけじゃない、ということがはっきりしていた。祖国などという幻想にしがみつくのではなくて、今現在をその場に共生する人たちと言葉を交わしながら作り出していく<移動民>の言語である。」

00(H12)年9月28日付、朝日新聞夕刊の「文芸時評」では津島佑子が「サンチョ・パンサ」についてほぼプロットを要約したあとにつづけて
「戯曲というこの形式で、多和田氏の本領がのびのびと発揮されたという印象があり、これまでともすると氏の小説にとまどいを感じずにいられなかった言葉の過度な運動力が、ここで疑いようのない魅力となって定着している。戯曲とは、本物の人間の肉体によって、現実の場で、そして現実の観衆の前で演じられることが前提となっている言葉の世界なので、どれだけ言葉が抽象的に浮遊しても、その言葉を支える肉体の現実性とのバランスが働く。むしろ、戯曲では言葉はあくまでも身軽に、大胆に動きつづける必要があるということらしい。」と評している。

多和田葉子とRASENKANの嶋田三朗君たちの出会いは、どうやらお互いにとってよき協働者となっているようである。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−07

   日のちりちりに野に米を刈
  わがいほは鷺にやどかすあたりにて  野水

次男曰く、初折・裏入。雑の句である。鷺という季語はない。打越と合わせれば前句は一意の風景だが、遠見の人物に姿情がないわけではない。野水はそれを掬って、すかさず起情している。当然だが「野に米を刈」人と「わがいほは」と名告る人は、別人でなければならない。

鷺が宿借る、鷺が寝に来るなどと作らずに、「やどかす」としたのは連句的云回しの面白さで、「(有明の主水に酒屋)つくらせて」なども同じ手法だが、とりわけ問答を誘うと知らせる体の作りにおいて利く。

仕立ての型は「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」だろう。小倉百人一首にも採られた喜撰のこの歌は、古今集の雑歌で、「しかぞ」は「然ぞ」、鹿ではない。ないが、鹿と解する俗伝が却って滑稽の種を提供したようだ。宇治山の隠者と鹿の取合せは俳諧になる。むろん、当人も会衆も「しかぞすむ」の本義を知っていて、作者が野水だと気付いていなければ、こういう句の面白みはない、と。


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