いつはりのつらしと乳をしぼりすて

Db070509t115

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

―表象の森― 中西武夫

嘗て、中西武夫さんという劇評家がいた。今は懐かし、ABCTVの長寿番組「部長刑事」の演出を1958(S33)年の第1話から第1513話までの間、なんと865本の演出を手がけた-Wikipedia参照-という人であるが、当時の私はそんな来歴も詳しく知らず、すでにかなりのご高齢とお見受けするも、ただいつからともなくわりときちんと私の創る舞台を観に来てくださるめずらしい御仁と思っていた。
私の仕事はいかほどか演劇的であっても舞踊が主体の世界であったから、当時流行りの小劇場演劇を中心に関西の演劇評を書かれていた中西さんが、何故私の舞台にマメにお出ましになるのかよく解せなかったし、またその舞台評を書くべき掲載どころもなかったであろうから、折角ご覧頂くもなかなかそのご高見に触れる機会とてないままに年月ばかり流れていった。
その中西さんにやっと筆を揮っていただけたのが以下の一文である。83年の何月号だったか、演劇雑誌「テアトロ」誌面に掲載された。


螺線館/四方館/風浪舎の3劇団の合同で「空を飛んだ鶏と銀色の松ボックリ」可能あらた作、林田鉄・嶋田三朗演出<夢の道行‘83夏三都連続公演>と肩書するこのダンスドラマは、尼崎のピッコロ中ホールからはじまり、大阪のオレンジルーム、神戸の生田神社のテントと三つの異なる空間で演じられた。私のみたのは第1回のピッコロでの公演であったが初日に拘わらず、混乱なくその熱演に感動さえ感じた。
おびただしい古新聞紙をまるめて作った塊りを積み重ねた山、それは照明で、紫陽花の花のように美しく私には思えた。その中でうごめき、その山をくずし、現れる鶏たち ― 雄も雌も、タイツとレオタードの踊り手、演技者たちである。―略―
1.ブロイラーの逃亡、2.鶏たちの夢、3.狂った鳥と松ボックリ、4.鶏たちの体験飛行、5.空を飛ぶための肉体と精神、6.可能性の空間に挑む者、6つの章で、なぜ鶏は鳥ではないのか? なぜ飛べないのか? を次々に問いつめていく。
原作の叙事詩らしい台詞は短いが、台詞を超す動きと踊りがたしかに<肉体で語る言語>として、観客の心に浸透し、揺さぶっていく。羽ばたけ、くちばしと爪を研げ! 自由の空へ飛翔せよ! ブロイラーは鶏たちに教え、鶏たちは人間に教える。
林田鉄の「螺旋の河をゆく阿呆船」「走れ、メロス」「アンネ・ラウ」「大津皇子」の作品は全部みてきた。彼はこんどの作品で、彼の詩的感覚とエネルギーを彼のいう身体表現の中で結合させている。―― いい仕事だった。


末尾に添えられた文章を眼にしたとき、私は心の中で快哉を叫ぶほどに悦んだが、だからといって私から謝辞の信書を出すとかそんなコンタクトは採らなかった。舞台を創る側がこれを観て評する側をどう遇すべきか、当時の私はそういう術を心得ていなかった。いや現在に至っても変わらずそうなのかもしれない。

この当時すでに70歳代後半であったろう中西武夫について、昨夜ネット探索してみて、いまさら判ってきたことなのだが、彼は昭和初頭すでに宝塚歌劇団座付の若手作家としてデビューしている。驚いたことに「東亜の舞踊」という書を編著者として出版しているが、これが戦時下の昭和18(1943)年である。訳書には「ベートーベン書簡集」というのもある。この初版が昭和3(1928)年らしい。さらにはシュールリアリズムの画家としてまた写真家として活躍したマン・レイと知友だったようで、マン・レイの書いた中西武夫宛の手紙が残されているという。
ざっとこんなところで、略年譜さえどこにも見あたらず、戦後はともかく、戦前の中西武夫の足跡は、点と点が線へとつながらず、その像は漠として描けない。
しかし、このわずかな情報からでも、晩年の劇評家としての彼の前身は、むしろ詩や舞踊や音楽、20年代、30年代の表現主義世界によりSympathyがあるように見受けられる。
劇評家中西武夫が、70年代から80年代、演劇というよりは舞踊主体の世界である私の仕事をずっと観つづけてくれていたのは、そのもう一つの視線からの関心ゆえだったのかもしれない。

たった一度だけだが、その中西さんと言葉を交わしたことがある。というより正確には彼の方から直に声をかけていただいたのだが、それは81年4月、劇団きづがわの舞台で、兄-双生児-の時夫が自身係争中の解雇撤廃闘争を描いて木津川筋争議団ミュージカルと副題した「船と仲間とど根性」の振付をしたもので、偶々終演後のロビーで中西さんと出会したところ、「やっぱり、貴方の手が、しっかり入っていたんだネ」とか云われ、「いやあ、どうも畏れ入ります」とかなんとか応じたのだが、後にも先にもこれきりだった。


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−09

   髪はやすまをしのぶ身のほど    
  いつはりのつらしと乳をしぼりすて  重五

次男曰く、恋含みとも読める前を承けて「二句恋」とした作りだが、野水・芭蕉の付合を男女の問答体と読めなかった後世の評釈は、いずれも、其の人を任意に女と見立てた付と解し、芸のない恋話をここで設けたがる。殆どの説が、「いつはりのつらし」とは男の裏切りに対する女の恨みだと云っている。

そうではあるまい。「いつはりのつらし」とは、世間-庵主-に対して身上を偽る-身一つを装うて宿を請うた-女の切なさ、と読んでごく自然に解釈がつく。「乳をしぼりすて」は「しのぶ身のほど」から取り出した表現の移りで、人目を憚る行為と読めばよいが、託して云いたいことは、空虚を忘れるためには実を棄てるしかない、ということだ-虚は棄てられぬ-。与える相手がなく自ずと張ってくる乳は、なるほど女にとって実の最たるものである。この見究めは俳諧になる。

「いつはりのつらし」を、庇ったり憎んだりする値打ちもない男への恨みなどと考えては、まったく話のさまにならぬと思うが、露伴にして「いたづらに乳を絞りすてつ、これもまた人の吾に誠の情無きよりなりと、つれなきを悲しみ歎けるさまにて、姿情おのづから明らかなり」と説いている。信じがたいことだ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。