みせはさびしき麦のひきわり

Gakusya060324

写真は岸本康弘と学舎の子どもたち

―四方のたより― 岸本康弘帰る

昨日-16日-、岸本康弘がネパールから帰ってきた。
自ら運営するポカラの岸本学舎へ赴くため発ったのが昨年の11月20日ごろだったか、ほぼ半年ぶりの帰国である。

ソウル経由の搭乗便が関西空港に着くのは午前11時30分だったが、いつも空港へ迎えに行っているM君がどうにも都合がつかないとのことで、急遽私が代役を務めるべく関空へと車を走らせたのだ。
国際便の搭乗者出口で待つこと30分余り、大柄なネパール人らしき青年に押されて車椅子に乗った岸本氏が姿を現した。出迎えの私に気がつくと、半年ぶりの彼はずいぶんと日焼けした顔がクシャクシャになるほどに笑いかけてきた。
付き添ってきた青年はシャム君といった。いわば岸本のネパール滞在中のヘルパーでもあり、2ヶ月ほど日本に滞在する予定で岸本宅に身を寄せ身の回りの世話をしてくれるらしい。

近年体力の衰えが目立つ今年70歳となる彼にとって、私のような五体満足な者からみれば日々生きること自体が重苦とも云えようものを、そんな彼が、こうしてネパールに半年、日本に半年、といった苛酷このうえない往復の暮しをもう十年以上も続けている。

彼、岸本康弘がはじめてネパールの地を旅したのは94年の秋だった。
翌年2月にも再び訪問、この時、彼は低い識字率のネパールで最貧の子どもたちのために学校の建設を思い立った。
97年5月、東奔西走の末ようやくポカラで無料の岸本学舎開校にこぎつけたのだが、観光産業しかないようなヒマラヤの麓、亜熱帯の温暖な高源の穏やかな風土と素朴な国柄が、この頃より紛争の絶えない地へと化していく。

96年2月、ネパール統一共産党の武闘派が共産党毛沢東主義派として分離し王制打倒を掲げて武装闘争を開始して以来、山間部を中心に国土全域にわたって争乱状態が長らく続いてきた。この間、01年6月には、なお記憶に新しい、一挙に9人もの王族が殺されるといういまだ真相は藪の中のあの惨殺事件も起こっている。

06年5月ようやくマオイスト-共産党毛沢東主義派-との和平交渉がはじまり、同年11月にネパール政府とマオイストは包括的和平協定に署名、10年にわたる紛争も終結したものの、以後、約束された制憲議会選挙は準備の遅れで延期されるなど紆余曲折があったものの、本年4月にやっと小選挙区240議席比例代表335議席の選挙が引き続き実施され、愈々今月28日にも憲法制定議会が召集、共和制への移行宣言がされる運びとなる。

いわば、ネパール民主化運動の動乱の10年余と重なりつつ、子どもたちの学び舎に懸けつづた岸本靖弘苦闘の10年余があるのだ。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−20

  破れ戸の釘うち付る春の末  

   みせはさびしき麦のひきわり  芭蕉

次男曰く、「ひきわり」は碾割、自筆控えには「引割」としている。
麦は夏の季語だが、麦の碾割は季とも云えぬ。句は雑の作りである。

格別の曲を設けるでもなく前と二句一意に仕立てて、暮春のそこはかとないさびしさを出したたげのように見えるが、「ひきわり」は「破れ戸」の移り、さらに、前は屋外、後は屋内の作業というあたりにも細かな目配りがある。釘打ち付ける人と麦を碾く人とは別人-男女-と見ればよい。つくろいの後の破れ-ひきわり-はいっそう「さびしい」だろう。滑稽の狙いはそこで、話を歴史にとれば、幽閉-する人、される人-の情もかくや、とばかりついつい想像を誘われる。

「裏の方にかたことと破れ戸に釘打付居る其店は、淋しく麦の挽き割などなし居る田舎町の小家の体なり。みせはの、はの字ただ一つに、古びくすぼりたる家の裏表を見せたる手段、まことに筆に分寸あり、敏妙驚くべし」-露伴-、と。


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