青天に有明月の朝ぼらけ

浮浪雲 (1) (ビッグコミックス)

浮浪雲 (1) (ビッグコミックス)

―世間虚仮― 池田久美子小沢一郎

洞爺湖サミットで喧しい世間-マスコミ-だが、そんなの関係ねぇ話題を新聞紙面から二つ。

・今年はずっと不調をかこっていた走り幅跳び池田久美子が、最後の機会になる南部記念でようやく五輪切付を手にした。助走や踏切の改良にずいぶん悩み苦しんできた末の「原点返り」だったという。そう、それでいいんだと思う。たえず肉体の限界に挑みつづけてきた一流の運動選手が、フォームであれ、助走や踏切であれ、改良の名のもとこれを弄ることは、とても難しいことだ。

残された最後の機会、いわば土壇場に開き直っての原点返り、「1歩ごとに、スローな感覚」に集中、助走したという。結果は昨年5月以来の6m70、「わけがわからなかった」との本人の弁、さもあろう。

彼女の祖父彌-わたる、故人-氏は戦争中開催中止となった東京五輪-1940年-の代表候補だったという。父実氏も五輪代表をめざした走り幅跳び一家、三代にわたる悲願がやっと実った、と。

民主党の小沢代表が、なぜだか秋山ジョウジの漫画「浮浪雲」のファンだと、小学館から「選・小沢一郎/あちきの浮浪雲」なる本まで出したと、なんだコレ?

昔は私も喫茶店などでよく手にした「ビッグコミックオリジナル」は、今も健在で隔週刊らしいが、35年も前から連載の始まった「浮浪雲」も820回を数え、単行本なら計86巻、こいつをご自宅に全巻取り揃えていると云うから、イヤまいったね。

だけど小沢氏、「浮浪雲」に取り憑かれるようにご愛読がはじまったのは、自民党幹事長となる89年頃からだとかで、ずいぶんスロースタート。まあ、権力の頂上が見えてきた途端、とかく人生訓を求め、悟りめいたものを欲しくもなる政治家の習性か。それが江戸の問屋場などという俗にまみれた世間にあって超俗のはぐれどりに共感してしまう、というのも判らぬではない。
ならばさらに「浮浪雲」愛読三昧に精進なされ、彼の哲学を血肉とされたし。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−29

   おもひ切たる死ぐるひ見よ  

  青天に有明月の朝ぼらけ  去来

次男曰く、季は秋、名残の月の定座である。

去来がこれを務める意義は、初裏八句目-月の定座-「三里あまりの道かゝへける」のところで既に説いた。

句は佳句と思う人もあろうし、見てくれだけの修辞のとりまわしと読む人もあろうが、問題はそういうところにあるのではない。

これは、一巻中随一の晴-名誉-の句である。付方は前句の人情に寄せた時分だが、自ずと、「死ぐるひ」は男、さらに剛勇の士らしい、と覚らせる作りになっている。「青天」「有明月」「朝ぼらけ」、口当りのよい三つの素材を身に引纏うのに、去来は殆ど苦労らしい苦労をしていないだろう。史邦の介添「おもひ切たる死ぐるひ見よ」の手柄である。

「付意の精妙なる、句品の高雅なる、猿蓑風の佳処を代表するものの一なり。前句の切ぱつまれる死に身の執念の心を一転して、仇も怨みも恚りも悩みも一朝に坐断せるの意ある光風霽月の景象を描き出せり。不即不離の妙境言語に絶す」-樋口功-
この判じ方を押進めると「もう乱戦が果てて天地無声のひっそりとした光景である。そこには死物狂ひの果てに倒れた屍がある。血に染みた額には無念の怨みを刻みながら、然かも思ひきった働きをして、覚悟の討死をしたその心もちは、さながら青天のあさぼらけのすがすがしさであったろう」-太田水穂-、というところまでゆく。

連句興行を祭りに喩えれば、この句の去来はさしずめ行列の花形武者だ。「死ぐるひ」に相応しい扮装-いでたち-なり景なり時分なりをさぐれ、という連衆の要求に応えるのは正客たるの者の務めで、これは合点の上の趣向である。合戦の情緒的始末などどうでもよいことだ。諸家の評語は思入れの過ぎた、たわいもない作文に過ぎぬ、と。


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