はなに泣桜の黴とすてにける

Santouka08110809

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― 昨日、今日、明日

秋とは名ばかりで真夏日が執拗に続いた残暑も彼岸が過ぎて、このところぐんと気温が下がり本格的な秋の到来だが、この季節の変わり目は小児喘息とアレルギー疾患を併症するKAORUKOにとっては鬼門の時季となる。

一昨々日から喘息の発作症状が少し表れていたようだったが、Dance Café本番の昨日は、朝からいよいよひどくなってきた。
だがこの日ばかりは出かけないわけにはいかない。彼女の様子では、午後2時集合の会場へ地下鉄を乗り継いで行くなど、到底無理だろうというので、タクシーを拾ったが、車の中でも咳は止まらず息苦しくなってきたもようで、急遽、母親と共に西九条の休日急病診療所へとそのまま駈け込ませた。

吸入などの応急手当で少しは効があったようで、終演の7時まではなんとか平静を保ったものの、帰宅して後、就寝の頃になってまたぞろ発作がひどくなった。この日二度目、またしても休日急病診療所へ駈け込む仕儀となったのだが、こんどは夜間診療の中央急病診療所で場所は西長堀近く。

吸入、点滴、そしてまた吸入と、症状を悪化させたぶん応急の手当も時間がかかって、やっと親子3人帰宅したのは午前2時頃になっていた。
急病診療所では、薬剤投与を一日分しかしない。だから今朝もまた、かかりつけの小児科へと受診にいって、KAORUKOはもちろん連合い殿も今日一日休暇となって、親子でゆるりと過ごしていらっしゃる。


さて、ひさしぶりのDance Caféについても書きとめなければならない。
ありさというBallet少女を得て、おまけにDecalco Marieの出演もあって、さらに演奏陣は、常連の杉谷君に加えて、violaの大竹徹氏、percussionの田中康之氏、Voiceの松波敦子嬢と、踊り手4人に演奏者4人の豪華さ?なのだから、メンバーの豊かさと充実は内容に反映しない筈がない。

やはり地の利の問題か、客席は思ったほど入らなかったのがいかにも口惜しいが、出来のほうは予想内の上の部といったところでほぼ納得のいくものであった。

だが、会場中央にでんと佇立する白木の太い4本柱の存在感は如何ともしがたいものがある。踊り手の形象する空間のフォルム、その造型力を阻んであまりある存在感なのだから、これら4本の木柱をよく取り込んだ表象世界を志向していく以外にないのだが、これがたんにドラマティックなだけのありきたりの手法では、これまた既視感に満ちたありきたりの世界しか生みださない。やはりどんな場合も課題は残るものである。


話は変わるが、このところずっと、新聞は読めても、本を読み進むことはできない日々が続いていた。読書にはやはり相応の気力が要る。著者の思考をそれなりに追い肉薄するには、自身の心に集中と持続が把持されねばならない。9日の不幸事出来から、心の動揺と拘束からとても自由になどなれる筈もなかったから、それも自然の理で無理はないかとうち過ごしてきたが、昨夜を経て今日は、ほんの一時間余りだが、打棄ってきた読みかけの書の残りをやっと読み通すことができた。どうやら心の内が少しばかり軽くなっているようである。


そして最後に「たより」らしい本題、
Mulasiaを利用しての次の企画を、昨年は神戸学院グリーンフェスティバルでの機会を得たものの、大阪では4年ぶりとなる山頭火を上演することにした。私自身生まれ育った九条界隈である、その地縁をよすがに一度はやってみたくもなるのは、これまた自然の理であろう。

はじめは10月中にもと思ったのだが、些か忙しないとも思い直し、会場との調整で11月29日、30日の両日とした。
詳細は斯くの如し、である。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−17

   冬まつ納豆たたくなるべし 

  はなに泣桜の黴とすてにける  芭蕉

次男曰く、花の塵、花屑と云えば落花の傍題である。それを「桜の黴-かび-」と云い替えたところが工夫だ。

むろん、花と桜は違う。花に黴は生えないが、桜なら生えておかしくない、と躱して花の座の凌ぎとしたわけだが、作意は不易と流行は一であって同じではないいうところまで及ぶ。納豆の黴を見咎めて、したたかに応じている。

冬から秋への季移りに続けて花の句を求められ、しかも「ふゆまつ」などと後ろ髪を引く体に挑まれれば、誰しも投げ出したくなるが、芭蕉は、困ったと云いながらじつはたいして困った様子でもない。連衆の転合には泣かされるが、「はなに泣」のは風月賞翫の揺るぎない伝統、というところへつなぎ替えている。泣の一字栽入が千鈞の重みだろう。談林と正風の微妙な接点を臨かせる句作りだ。

「ふゆまつ」を見逃した評家は、いろいろこじつけてこの句を解釈する。「秘注」は「老人などを思ひやりテ、よの人の観想也。花も桜も黴たる衣類の如しと也」と、無茶なことを云う。漁潜の「冬の日附合考」や「七部集大鏡」-何丸著、文政年間成-は、「黴」を懲-こり-の誤記とする。ことほどさように解釈に手を焼いている、ということだ。

升六もまた「月に花に執する心は是即ち五欲六塵の境をまぬがれざるものから、さらに業障の媒-なかだち-なるべしと悟りて、其有為の塵欲を捨て,無為の道に入んとの意にやあらん」、と。


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