水干を秀句の聖わかやかに

Alti200601027

―表彰の森― 書の森に紛れ込んで

特別陳列に版画家の「棟方志功の書」を掲げた毎日現代書・関西代表作家展を観るべく近鉄阿倍野店に出かけた。会場は9階のアート館だが、此処に足を運ぶのはいったい何年ぶりだろうか、何だったか芝居を観に来たのではなかったかと、遠い記憶をたどるがどうにもはっきりしない。

そのアート館の空間を回廊のように仕切って、出品者ざっと200人の一作々々がところ狭しと並んでいるのだから、壮観といえばそうもいえようが、全体の印象とすれば些か煩い感じがつきまとう。おまけにひとかどの書家200人の作が一堂に会したとあれば、彼らに連なる人々が押しかけるは必定、会場は引きも切らずの賑わいで、じっくりと鑑賞どころではないのだが、それでも十数点の作品には眼を惹かれ、束の間足を止めては鑑賞させていただいた。

もちろん棟方志功の書もそれなりにおもしろく見応えもあるが、それらの作品世界と関西を代表するという書家諸氏の現代書群が、なにか特別な響き合いを奏でているかといえば、とりたててそんなことは感じられない。なにゆえの特別陳列か、冥途の棟方志功画伯、どうしても客寄せパンダに使われたような気がしてならないのだ。

それにしても、この国において書の裾野はまことに広いものと、あらためて痛感させられる展覧会ではある。

話は変わるが、思い出しついでに書き留めておく。
現在、書道芸術院の理事長を務める恩地春洋氏の門下に、嘗て高嶋春蘭という女性の書家が居た。その彼女に教えを請うていたのが私の妹で、そんな縁もあって私が泉北晴美台に居た頃は、30坪のその稽古場に、展覧会などの出品前にはきまって春蘭門下の面々が集っては、条幅や大きな作品をものするのに汗を流していたものだった。今は懐かし、もう20数年昔のことだ。

その後、春蘭女史は、やむを得ぬ事情もあってだろう、春洋門下を離れ、彼女の弟子たちも雲散した。それからの彼女は、昨今流行りの、絵手紙の表象世界へと転身したようである。妹はといえば、趣味の域を出ないレベルでだろうが、数人ばかりのささやかな私塾も今なおつづけている。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−35

   春のしらすの雪はきをよぶ  

  水干を秀句の聖わかやかに  野水

水干−狩衣の一種、平安時代には庶民の服装だったが、後に公家の私服や元服前の少年の晴着に用いられ、鎌倉時代以降は武士の正装となった。

次男曰く、名残の花の上座だが、三句引上げて荷兮に譲ったことは先に説いた。雑の句。春四句としてはこべば挙句も同季、五句続の春となるから避けている。

其人の風情を男に執成したのは、以て芭蕉に対する謝辞、賞賛としたかったからだ。因みに、芭蕉逗留の店請は野水である。「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」に呼応して、客人に衣服を改めてもらうという含みもあるだろう、と。

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