秋暑い乳房にぶらさがつてゐる

080209144

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月5日の稿に
10月5日、晴、行程2里、油津町、肥後屋

ぶらりぶらりと歩いて油津で泊る、午前中の行乞相はたいへんよかつたが、午後はいけなかつた。-略-
秋は収穫のシーズンか、大きな腹を抱へた女が多い、ある古道具屋に「御不用品何でも買ひます、但し人間のこかしは買ひません」と書いてあつた、こかしとは此地方で、怠け者を意味する方言ださうな、私なぞは買はれない一人だ。

同宿のエビス爺さん、尺八老人-虚無僧さんのビラがない-、絵具屋さん、どれも特色のある人物だつた、親子3人連れのお遍路さんも面白い人だつた、みんな集まつて雑談の花が咲いたとき、これでどなたもブツの道ですなあといつた、ブツは仏に通じ、打つに通じる、勿論飲む打つ買うの打つである、またいつた、虱と米の飯とを恐れては世間師は出来ませんよと、虱に食われ、米の飯を食ふところに世間師の悲喜哀歓がある。
※表題に掲げた句のほか6句を記している

―世間虚仮― フルトそろばん、って?

漢字は好きだが、ちょっぴり計算によわい我が家の2年生、2学期ともなれば九九を習い始めるし、早めの対策を施すかと、6月から近所に今年からopenしたばかりのそろばん教室に通わせはじめたのだが、この教室の指導法が、昔ながらの習うより慣れろで育った父母からみれば、どうも腑に落ちない。週2回通っている子どもが、宿題と云って持って帰るプリントなどを見ても、なにやら理に落ちすぎていやしないかと感じられてしかたがない。

そろばんはデジタル式の計算機だといわれる。いわば電卓の古式版といったところだが、文明の利器たる電卓より優れて暗算能力を高めてくれる。それは視覚において十進法に適っているからだ。特異な暗算能力の持ち主が、脳内でそろばんを弾いているだろうことは、疑いの余地はない。

私なら、いの一番に、1から10まで足すのを、とことん反復させ、指と脳に刷り込ませるところだが、この教室ではそうはなさらないようである。すでに一ヶ月余り過ぎて、昨夜も宿題のプリントをやっていたが、一桁の数字が3つか4つ並んで、引算が混じったものだ。それを彼女は、むしろ頭で先に計算しながら、珠の動かし方を覚えようとしているといった態だ。

仕事で遅く帰ってきた連合い殿をつかまえて、「こりゃちょっとおかしいぜ」と話を振ったら、「この教室、フルトそろばん、と云っているけど、私も首を傾げるところがある」との返答。

Netをググっても頭に冠した「フルト」の由来がまるで見当つかない。カラヤンの前にベルリン・フィルの音楽監督を務めたドイツの著名な指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、いまでも熱烈なファンやマニアが多いというが、まさか音楽家の名前に由来するものとは思えない。その彼に数学者の従兄がいた、彼より17歳ばかり年長で、その名はフィリップ・フルトヴェングラー、数論を究めたというこの学者は、半身不随の身で車椅子の学究生活だったらしいのだが、その殆どをウィーン大学にあって、かの不完全性定理のクルト・ゲーデルらを輩出させている。

フルトそろばんの「フルト」と辛うじて結びつきうるとすれば、この数学者の名に由来するものかと思えなくもないが、はたしてどうか、まるで確証はない。

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