いつまで旅する爪をきる

Santouka081130010

−表象の森− 無限微分折法

石川九楊編「書の宇宙 -21-さまざまな到達・清代諸家?」より

明末連綿草を経て、折法-リズム-は相対化され、揚州八怪の時代に至ると、ついに折法から自由になった。

秦の始皇帝時代に、いわば一折法-字画の成立。字画−線という単位が成立し、字画を積み上げ積み重ねることによって文字が成立するという構造-として誕生した文字は、王羲之に象徴される草書の時代に「トン・スー」や「スー・グー」の二折法としてリズムを成立させ、次いで初唐代の楷書において二折法書法が三折法刻法を吸収して「トン・スー・トン」の三折法=立体書法を確立し、宋代に至ると「トン・ツ・ツ・ツー・トン・ツ・ツ・ツ−・トン」とでも表現される多折法へとせり上がった。折法は、さらに明代に、その多折法の上に多折法を積み上げることによってこれを無限に微分し、ついに相対化されるに至った。文字を書く書法が折法から自由になったとき、どのような文字の表現も可能になった。むろん、可能になったことは、必ずしもただちに実現することを意味しない。

折法から剥がれた無限微分折法は-無限リズム法、無限拍リズム法、リズムの喪失-は、筆蝕に反射して無限に微分され、無限に微動する微粒子的な律動そのものである筆蝕を生むことになった。

この無限の微粒子的律動に支えられ無限折法の成立は、いわば荒野に素手で立ちつくす時代、すなわち自己組織化、自己運動の不可避の時代に至ったことを意味する。
いわゆる戦後前衛書に見られるような、筆蝕が劇作法-演劇的な展開の必然性-を欠いて、いたずらに書が筆蝕の遊戯化へと無限に退嬰する可能性は、この清朝の金農の無限折法・無限微動筆蝕に、同時に宿ったのである。

無限微動筆蝕の姿は、金農の「題昔邪之廬壁上」の横画のすべてが、幾重にも紙面に対して小刻みに震えるように上下・深浅運動を繰り返しつつ-それゆえ字画とりわけ字画の下部が波状に結果する-左から右へと書き進められる表現に明らかである。

金農「題昔邪之廬壁上」-1762年-

Kinno02

隷書/三折/波偃。/墨竹/一枝/風斜。/童子

Kinno01

入市/易米。/姓名/又落/諸家。

無謀にも剃刀で石の表面を削ぎ落とすかのごとき、恐るべき切り削りの書。金農にとっては、紙-対象世界-は一度も柔らかな対象であったことはなく、絶えず、鉱物のごとき硬さをもつものにほかならなかった。

無限の自由を獲得することによって、書は自己組織し、自己運動する段階-stage-、つまり自立の近代に突入した。書そのものがリズム-折法-であり、言葉であり、政治であり、国家であり、神であるという転倒が生まれた。書が初めて芸術表現として独立することが可能になったのである。また、このとき、言葉を書きつけるところに自動的、付随的に書が誕生するという自明生は解体された。毛筆で詩文を書きつけることが必ずしも書の誕生を意味せず、逆に、筆蝕の表現力が詩文の表現力に匹敵する、あるいは上回るまでに至ったのである。

微動する筆蝕-筆尖と紙<対象>との関係に生じるふるえ-にすぎないものが、自らを組織し、折法を仮想し、字画を擬態し-文字を構成し、文字の一部であるところの字画のごとき仮の姿をすること-、文字を擬態する-文字のごとき仮の姿をすること-ことによって、ひとつの世界として聳立する以外になくなったのである。


―山頭火の一句― 行乞記再び -23-
1月16日、雨后晴、寒風、宿は同前

雨だ、風だ、といつてぢつとしてゐるほどの余裕はない。10時頃から前原町まで出かけて3時頃まで行乞する、一風呂浴びて一杯ひっかける。

句稿を整理して井師へ送る、一年振の俳句ともいへる、送句ともいへる、とにかく井師の言のやうに、私は旅に出てゐなければ句は出来ないのかも知れない。

朝も夜も、面白い話ばかりだ、−女になつて子を産んだ夢の話、をとこ女の話、今は昔、米が4銭で酒が8銭の話。‥

※日記末尾に、表題句を記す

10040303

Photo雷山千如寺

この頃、木村緑平を頼りに句集出版を果たすべく心労は絶えないようである。句稿は相応に貯まってはきているが、出版の目途はなお埒があかない状態が続いていたのだろう。

山頭火の第一句集「鉢の子」が刊行される運びとなるのは、この年の6月20日
この日の「いつまで旅する爪をきる」は、
「いつまで旅することの爪をきる」と改め、採られている。

人気ブログランキングへ −読まれたあとは、1click−