のぼりつくして石ほとけ

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−表象の森− 東寺見物と青木繁

やっと青木繁展を見てきた。
7月10日の最終日も近づいているし、休日などに行こうものならとんでもない混雑のなかの苦行となろうから、絶対平日に行くべしと思っていた。

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京都南のインターから国道1号線を北へ走ると東寺にぶつかる。その門前を通りながら、そうだ学生時代から京都には関わりある身でありながら、この歳まで拝観もせず素通りばかり、時間に余裕もありそうだからこの際ちょいと立ち寄っていこう、独りだとこんな気まぐれもおきる。
四度焼失の災厄に遭ったという五重塔は、寛永21-1644-年、将軍家光の寄進によって再建なったという。

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金堂の薬師三尊、薬師如来の台座下部、その四面に配された小ぶりの十二神像たちに思わず見入ってしまった。

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見応えのあったのは講堂の立体曼荼羅、広い堂内に所狭しと並ぶ21躯の仏像たち、その内の15躯が平安前期の創建時のものでみな国宝指定、梅原猛によれば、この配置が空海の独創であろうというからおもしろい、必見の価値あり。

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岡崎公園へと足を運ぶのは久しぶりだ。
京都国立近代美術館−没後100年の青木繁展。

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青木繁については、作品「海の幸」-1904年-との出会いにはじまって、4年前になんどか書いたので、ここでは繰り返さない。
ただ、遺された作品の、そのナマの姿に直に向き合えれば、それでよかった。

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「黄泉比良坂」1903年
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「輪転」1903年

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「大穴牟知命」1905年

夭折の天才画家と、今でこそ謳われ評価も定まっているが、当時の画壇は一旦はこの早熟の才能に着目しつつも、時代の器はこれを受容もできず、結果として黙殺してしまったのだ。彼は不遇なまま、放浪の果てに病に倒れ、28歳の若さで死んでしまった。
わずか10年にも満たぬ画業のうちに、彼ならではの凝縮された作品世界がある。
その世界にひたすら耽溺できれば、ありがたいことこのうえない。

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「自画像」1904年

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「自画像」1903年

自画像が三点あった。
21歳の時の、未完ともみえる荒々しいタッチの自画像には強烈な牽引力がある。

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「幸彦像」1907年

我が子に幸彦の名を与えた彼は、父親の危篤の報で久留米に帰郷、幼な児は2歳にしてそのまま生き別れとなった。
その幼な児がどのように育ったのか、気になって調べてみた。
作曲家にして尺八奏者の福田蘭堂、昭和28-‘53-年のNHKラジオ放送「新書国物語・笛吹童子」、懐かしやあのオープニングテーマを手がけた御仁だった、とはオドロキ。
その蘭堂の息子が、クレージーキャッツ石橋エータローだと、ずいぶん意想外なところへ結びついたものだ。


―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-171

6月29日、同前。晴、寝床からおきあがれない、悪夢を見つづける外ない自分だつた。
寝てゐて、つくづく思ふ、百姓といふものはよく働くなあ、働くことそのことが一切であるやうに働いてゐる。
私は悔恨の念にたへなかつた。

※句の記載なし、表題句は6月26日所収。

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Photo/川棚温泉、クスの森の大楠

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