予感と徴候、余韻と索引

古い舞台写真と古いBlogより――

<表象の森>−予感と徴候、余韻と索引−2006.05.03記

生きるということは
「予感」と「徴候」から「余韻」に流れ去り「索引」に収まる、ある流れに身を浸すことだ
と、精神科医.中井久夫は、その著「徴候・記憶・外傷」の
「世界における索引と徴候について」という小論のなかで語っている。

「予感」と「徴候」は、ともにいまだ来たらぬ近−未来に関係している。
それは一つの世界を開く鍵であるが、どのような世界であるかまだわかっていない。
思春期における身体的変化は、少年少女たちにとって単なる「記号」ではない。
それは未知の世界の兆しであり予告である。
しかし、はっきりと何かを「徴候」しているわけでもない。
思春期の少年少女たちは身体全体が「予感」化する。
「予感」は「徴候」よりも少しばかり自分自身の側に属しているのだ。

「余韻」と「索引」にも同様の関係がある。
「索引」は一つの世界を開く鍵である。
しかし、「余韻」は一つの世界であって、それをもたらしたものは、
一度は経過したもの、すなわち過去に属するものである。
が、しかし、主体にとってはもはや二義的なものでもある。

 「予感」と「余韻」は、ともに共通感覚であり、ともに身体に近く、雰囲気的なものである。
これに対して「徴候」と「索引」はより対象的であり、吟味するべき分節性とディテールをもっている。

「予感」と「徴候」とは、すぐれて差異性によって認知される。
したがって些細な新奇さ、もっとも微かな変化が鋭敏な「徴候」であり、
もっとも名状しがたい雰囲気的な変化が「予感」である。
「予感」と「徴候」とに生きる時、人は、現在よりも少し前方に生きている、ということである。
これに反して、「索引」は過去の集成への入り口である。
「余韻」は、過ぎ去ったものの総体が残す雰囲気的なものである。
「余韻」と「索引」とに生きる時、人は、現在よりも少し後れて生きている。

前者を「メタ世界A」、後者を「メタ世界B」と名付けたとして、
AとBはまったく別個のものではない。
「予感」が「余韻」に変容することは経験的事実だし、たとえは登山の前後を比較すればよいだろう。
「索引」が歴史家にとっては「徴候」である、といったことも言い得る。
予感と徴候、余韻と索引、これら四者のあいだには、さらに微妙なさまざまな移行があるだろう。

―――参照−中井久夫「徴候・記憶・外傷」みすず書房

<今月の購入本>−2013年11&12月

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◇清水 潔「桶川ストーカー殺人事件―遺言」新潮文庫
梶井基次郎.他「全集 現代文学の発見−存在の探求 <上>」學藝書林
◇ベルトルト・ブレヒトガリレイの生涯」岩波文庫
◇チャールズ・ダーウィン種の起源 <上>」光文社古典新訳文庫
◇チャールズ・ダーウィン種の起源 <下>」光文社古典新訳文庫
◇ニール・シューピン「ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト」早川文庫
◇VHS「瞼の母東映ビデオ