ちょうど十年前の一文だが

この間、まあいろいろと御座ったものの
あまり変わり映えはしない、ネ。

五十歩百歩、されど… −2009.01.08記

歳を重ねるごとに涙腺が弛む、なにかにつけて涙もろくなるというのは、どうやら当を得たことのようだ。
新しい年が明けたというに、新聞を見てもTVのNewsを見ても、どうにも暗い話題ばかりが眼につく昨今のご時世だが、それらの記事や報道ひとつに、はからずもつい涙してしまうことが、この頃ずいぶんと多くなった自分に、いまさら気づいては少なからず驚いたりしている。
はて、どうしてこんなにも涙もろくなってしまったのか、自分はこんなんじゃなかった筈なのに、伝えられる事件などの背後に潜む、その人の定めというか軛というか、そんなものが記事や報道から垣間見られたりすると、もう堪え性もなく涙してしまうのだ。
どう考えても若い頃はこんなじゃなかった。
自分というものを、兄弟であれ友人であれ先輩であれ後輩であれ、あるいは本のなかの虚構の人物であれ実在の人物であれ、他者とのあいだに共通項を見出すことなどそう容易にはありえなかったし、むしろ他者と区別すること、他者との異なりにおいて自分を見出そうとしてきたし、そうやって自分の像を作ってきたのではなかったか。
それなのに、もういつ頃からだろう、60歳を境にした頃からはとくに目立ってそうなってきたような気がするのだ。
考えてみれば、これはやはり、自分自身の人生観、その転変と大きく関わりがあるのだろう、と思える。そんな気がする。
自身の向後の人生が、これ以上のことはなにほどのこともなくほぼ定まっているかに見えてしまうようになった時、人は我知らずある諦観に達してしまうのだろう。
その諦観から、それまで自分とは大いに異なっていた筈の他者の人生が、そんなに違いを言いつのるほどのことじゃない、まあ五十歩百歩なんじゃないか、とそう受け止められるようになってくるのだろう。
そうなれば、無縁の他者に対してすらも同化しやすくなる、縁もゆかりもない他者の出来事にもかかわらず、その定めや軛に思わず感情移入してしまい、ついつい涙することも多くなる、ということか。
ある種の諦観や達観を境にして、たいした違いじゃない、五十歩百歩なのさ、というのも一方の真理なのだろう。
さりとはいえ、小さくとも違いは違い、その小異が大きな意味を持つ、というのもまた真理なのだろう。
願わくば、その両方に跨って大きく振れながら、残された命を生きたい、と思う。

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