ぬくうてあるけば椿ぽたぽた


<エコログのなかのある対話から−その5>


四方館
さて、ここで提案なのですが、
<保障性>についてリアルに考えていきませんか。
あなたを取り巻くものすべてをいろいろと勘案してみて、
あなたの今後の<生きざま>が将来どこかで破滅・解体するのではなく、
めでたく?<死にざま>として完結するためには、
いかなる<保障性>が最低限必要であり、より望ましいものがなんであるか、を。
このことを、あなたの学問知で分析採択するのではなく、実践知で見極めるべきだとは思いますが。

<愛>の問題について云えば、
求めて止まぬ愛は、必ず破綻しますね。あなたはそれを充分承知しているはずだ。
あなたに必要な<愛>はこの身に無尽蔵なほどに降り注がれる愛だと思いますよ。
とすれば、それこそ私にレスされた<固有・非固有>の問題で云えば、固有の愛に求めるのではなく、非固有の愛に包まれるべきじゃないか、と。

(2004/12/02 12:12)


四方館さん、昨日はほとんど眠れなかったので、今日の夜、やっと眠れまして、統合失調症の友人からの「Yさんどうか助けてください。もう死にそうです」 という、深刻な苦しみで私だけに、アドバイスをいつも求めてきてくれる電話で起きて、やっとこの病状でも彼の相談に乗れたので、よかった、とひとまず安堵しました。

四方館さんがここでずばり、出してくださった「保障性」という問題をリアルに考えていきませんかということ。ほんとに、四方館さんは私という人間の苦しみの 本質、病の本質、そしてどうなるのが良い道なのか、ということをずばり、言い当ててくださいますね。でも、私も友人に対してそうですが、本当にその人に沿って、理解しようとすれば、自然にそういった処方の道も発想として出てくるものなのでしょうね。ありがとうございます。

もちろん私も「生きざま」が「死にざま」として完結するようにとは願っていますが、自信がないんですね。そこでどんな「保障性」が最低限必要であるか。

エコログですでに書きましたが、私は実家などのお金の争い、自分の経済苦を経由して、経済・物質不安というものが病気と直結する弱点をもってしまったので、最低限の経済・物質不安のない、少ない状態で暮らす、ということは、他の方はともかく、私に関してはまず、条件になります、情けないようですが、本当のことですから。

それで、「愛」の問題ですが、求めて止まぬ愛、というのは、お察しの通り、私もこの歳になったからか、元々からか、やはりそういう愛し方をすることはないでしょうね。反面、私の身に無尽蔵に降り注がれる愛、今の夫も、ほんとに「無条件に」私を愛してくれたのです。
でも、人の「愛」には本当に、それぞれ魂の種類の違い、のようなものがあって、私は夫のそれを否定はけっしてしていませんし、私も夫を愛している、と書きもしたのですが、無尽蔵なほどに、そして無条件で、しかも「私と魂の種類を同じくして」愛してくれる人、そういう人との関係をもっていくことが、やはり大切なのだと、自分でも悩んだうえで、感得しました。

以前に私はそれを、「完全な愛」「守り守られるもの」と表現しました。四方館さんの言ってくださる、私が提示させていただいた固有・非固有でいうところの、非固有の愛、というのは、つまりは無条件の、上記のような愛のことですね。私は絶妙に恵まれているのです。あとは、「安心して行きなさい」ということだけなのです。すでに、その愛は私にあたえられているので。

今後、どんな生活形態、結婚形態をとっても、それこそ究極には心の次元で、その愛の関係をもっていくことは、私にたえず、経済・物質面の「保障性」どころか、「人間」 として生きる私への根元からの「保障性」を「たえずあたえてくれる」ものだと思っています。そう感じ続けている以上、それを大事にしなくてはいけませんね、そうしたいですね。

私の生は一刻、一刻歩み、苦しみもするものであって、「たえず人間としての最低限の保障性をあたえてもらうこと」 は、やはり何よりも大切でしょう、このような私にとっては。もちろん、あたえてくれる側がそのようなことを本当に望んでなければ、はじめにあった、求めて止まぬ愛、に過ぎないわけで、そうではないですものね。
ありがとうございます。

(2004/12/02 21:16)


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