ふりかへるふるさとの山は野は暮るゝ

  「MANAS」より


<風聞往来>


戦後60年、語り継がれるべきことひとつ>


4月3日付、毎日新聞の読者投書欄「みんなの広場」に、
戦後60年‥‥今も自責の日々」と題する一文があった。
86歳の男性である。以下要約。


昭和20年3月、私は横須賀の空技厰にて航空発動機の整備と研究にたずさわっていた。
急に上司から「直ちに沖縄の基地に行け」と命令が下り、同僚部員十数人と軽爆撃機に乗せられ出発。
駿河湾上空あたりで「沖縄は米軍の上陸が始まるのでダメだ。大分空港で降りろ」と。
大分で着陸するや否や、今度は「すぐ鹿児島の鹿屋基地に行け」と。
そうこうしてやっと鹿屋基地に到着したのだが、眼の前には夥しいエンジンの残骸が山積みされていた。
「このなかから使用できる部品を使ってエンジンを組み立てよ、3時間飛べればよいから。」との命令。
同行の者たちみんなで手分けして部品を集めて組み立て、軍の整備員に渡したのだったが‥‥。
このエンジンが鹿屋基地を飛び立った特攻機用だったとことを、後になって知るところとなり、
以来、神風特攻隊として突入した彼らに対して、自責の念につまされて毎日を送っている私なのです。
と結んでいる。


哀しいというより残酷な戦争秘話だ。
自分の手がこういう形で戦争に、しかも多くの前途有為の青年たちを散らしむる行為に加担したことを思えば、慙愧に耐えないだろう。
戦後60年、戦争を知らない世代に戦禍の悲惨を語り継ごうと、いろいろな語り部たちの体験が綴られてゆくが、
背負わされた重い十字架に60年の歳月をひたすら沈黙のままに耐えてきたであろう、こういう人々の体験をこそ、もっと掘り起こされなければならないのでは、と痛感させられる一文だった。


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