老木に花の咲かんが如し

「人麻呂伝説−鴨山」より


風姿花伝にまねぶ−<12>


物学(ものまね)条々−老人


 老人の物まね、此道の奥義なり。
 能の位、やがてよそ目に現るゝ事なれば、是第一の大事也。
 およそ、能をよき程極めたる為手(シテ)も、老いたる姿は得ぬ人多し。
 たとへば、木樵・汐汲の、わざ物などの翁形をしよせぬれば、やがて上手と申す事、これ校(あやまりたる)批判なり。冠・直衣、烏帽子・狩衣の老人の姿、得たらん人ならでは、似合ふべからず。稽古の劫入りて、位上らでは、似合ふべからず。又花なくば、面白き所あるまじ。
 およそ、老人の立振舞、老いぬればとて、腰膝を屈め、身を約(つ)むれば、花失せて、古様に見ゆるなり。
 さる程に、面白き所稀なり。たゞ大方、いかにもいかにもそゞろかで、しとやかに立振舞ふべし。殊更老人の舞懸り、無上の大事なり。
 花はありて、年寄と見ゆるゝ公案、委しく習ふべし。たゞ、老木に花の咲かんが如し。


世阿弥は、女体の風姿を「幽玄」の代表とし、老人の物まねを「此道の奥義」だという。
「能の位」、つまりはシテの演技、芸の力、心の位が、老人を演じた際には、隠しようもなくそのまま現れてくるものだ、というのである。かなりの修練を重ねたシテさえも、老人の演技はなかなかこなせるものではない、とつづけている。


西行桜」や「遊行柳」の序の舞における老樹の精、
「老松」、「放生会」、「白楽天」などの序の舞における神格性を帯びた老体、
これらを演じうる老体とは、稽古の劫、即ち年期もよほどに積まれて、格式も最上部と見られるほどでなければ相応しくないだろう。
そのうえ、こうした老体にも、世阿弥は「花なくば、面白き所あるまじ」と花あることを要請するあたり、芸道の果てなき極致を見ている。


老体の演技の根本としては、「別紙口伝」の中に、
「物まねに、似せぬ位あるべし」という世阿弥らしい卓見がある。
「物まねを極めて、そのものに真に成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし」と説く<似せぬ位>とは、物まねから入りつつ、物まねを突き抜けて、幽境自在の境地というべきか。


さて、本文後段、老人の立ち居振る舞いは、老体だからと腰や膝を屈めたり、身を縮めるなと、そうすれば花もなくなり、醜態となるだけだ、と。
そぞろゆるやかに、しとやかにして、とりわけ老体の舞懸かりにおいては「花はありて、年寄と見ゆる」工夫が「無上の大事」であり、よくよく「委しく習ふべし」
「老木に花の咲かんが如し」


 −参照「風姿花伝−古典を読む−」馬場あき子著、岩波現代文庫


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