念彼観音力洞門をくぐる


    「うしろすがたの-山頭火」より


<古今東西> 


<柄谷行人のトランスクリティーク>


柄谷行人氏の「トランスクリティーク−カントとマルクス」を、とりあえずやっと一読した。
この書、著者自身曰く、ほとんど10年の間、この著作に取り組んできたという、力作であり大部の書である。
たしか私は3年前に購入した筈だが、じつくりと腰を据えて読まなきゃとても敵わないと、長らくツンドク状態になっていたのだ。
なぜか最近、その気になってあらためて手に取り、挑戦をはじめたのだが、先週末やっと読み終えたという次第。

著者は、序文冒頭でこう述べる。
「本書は二つの部分、カントとマルクスに関する考察からなっている。この二つは分離されているように見えるけれども、実際は分離できないものであって、相互作用的に存在する。私がトランスクリティークと呼ぶものは、倫理性と政治経済学の領域の間、カント的批判とマルクス的批判の間の<transcoding>コード変換、つまり、カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む企てである。」と。

著者柄谷は、カントでは「純粋理性批判」を主に、マルクスでは「資本論」を主に、それぞれを思惟的思想的体系の書として読み解くのではなく、あくまでカントとマルクスに通底する<批判>の意味を現前化しようとする。

「道徳的=実践的とは、カントにとって、善悪の問題などではなく、自由の問題であり、自己原因的であること、また他者を「自由」として扱うことを意味するのだ」と。
したがって、「カントの「自由の王国」や「目的の国」とは、コミュニズムを意味することは明らかであり、
逆に、コミュニズムはそのような道徳的な契機なしにはありえない」と。
あるいは、マルクスの「資本論」について、まず「ヘーゲルとの関係で読まれるのが常であるが、『資本論』に比べられる書物は、カントの『純粋理性批判』だ」といい、
資本論におけるマルクスの批判は「資本主義や古典経済学の批判などというよりも、資本の欲動と限界を明らかにするものであり、さらに、その根底に、人間の交換(=コミュニケーション)という行為に不可避的につきまとう困難を見出すものだ」という。
また「マルクスにとってコミュニズムは、カント的な『至上命令』、つまり、実践的=道徳的な問題である」と。

本書の序文をごく簡単にスケッチすればそのようなことなのだが、
一読したからといって、本書全体について、ごく短いものにせよ書評など私にはとても覚束ない。
なのでさしあたりは上記の如く引用紹介のみにとどめることでご勘弁願う。

この年になるまで、まったくのカント知らずの私であるのに、こんな書を読もうということ自体、冒険というより単なる向こう見ずなのだろう。
今後、再読、再々読しながら、かように愚昧な私でも本書に触れていく機会があれば幸いなのだが‥‥。
あらためて、他日に期したい。


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