もう死んでもよい草のそよぐや

「迷宮のシンメトリー」より

<行き交う人々−ひと曼荼羅>


<行き交う人々>と題して、私の60年の生に縁深き人々について記していこうと思い立った。
生死の別なく、過去となった人も、現在につながる人も、さらにはなお未来においてある人も。


<久本勝巳君のこと>

彼は5歳か6歳年下だったから、昭和24年か25年生まれということになる。
私を師とし、先生と呼んだ最初の人である。
私が師の神澤和夫に「自分なりに舞踊をやってみます」と厚顔にも宣言して、
現・四方館の前身でもある林田創作舞踊研究所を立ち上げたのは1974(S49)年4月だった。
ちょうど30歳を眼前にしてのことだった。
その開設宣言には
「はなはだ抽象的にすぎるが
 舞踊原理としてありうべきいっさいの対象(潜在的な意味での)
 に対するわれわれの身体の支配力が
 ただひとつの空間を築きあげるといってみるならば
 研究所はこの身体的表現の開発・形成に
 ひとつの道をつけていく場として実現されねばならない」
と、些か気負いすぎのフレーズが躍っている。
大学に入ってまもない19歳の夏から演劇と舞踊の二足の草鞋をはいていた私は、演劇においては小さいながら<9人劇場>なる劇団を65(S40)年から主宰しすでに9年を経ようとしていた。
劇団のほうに集った仲間たちとは別に、舞踊の集団を作ること。
身体表現を主軸に不断に稽古を重ね、創造主体=舞踊家を育成すること。

この立上げとともに我が門を最初に叩き、以後86(S61)年秋の「林田鉄の舞踊展」の公演まで一線で踊りつづけた人が彼・久本勝巳君である。
郷里は島根県と聞いた。子沢山の農家の三男坊に生まれたとも。おそらく小作農あがりだったのだろう。
戦後の農地改革で耕地を得たとはいえ充分なものであるはずもない。
彼は中学卒業と同時に、神戸のクリーニング店に就職したという。
65(S40)年頃なら大阪では高校進学率も90%近くに達していたのではなかったか。
とにかく生真面目でとても粘り強い人だった。身体は細身、筋肉質でなくどちらかといえば骨格も華奢で、腰骨や骨盤などは男性とは思えぬほどに細かったが、そこは育ちゆえか身体を酷使する激しい稽古にも決して音を上げない精神力をつねに発揮していた。
稽古場へはいつも一番乗りし、床の雑巾がけを黙々としていた。後輩がたくさんできて大先輩になってもこの姿勢はずっと変わらなかった。
私の初期における舞踊作品で記憶に残るものといえば、すべて彼が中心に踊っている。
「出会いに関する4つの章」では25.6分を踊りきっている。
冒険者」のsoloや、「橋は架けられた」の群舞を経由して、78(S53))年の劇的舞踊「走れメロス」ではメロス役として1時間40分の舞台を、時に演じ、時に踊り、跳ね、走り、ひたすら動きつづけた、20数名からなるコロスの仲間たちと。
メロスを演じる彼は決して巧みな表現者ではなかったが、その清楚で簡潔な美しさが客席の心を打った。
メロス上演の成果以後、その舞踊の表象世界に変容を重ねていこうとする私に、前述の「林田鉄の舞踊展」までの長きを辛抱強く付き合ってもくれた。
足かけ13年、20代前半から30代後半、その間に結婚もし、一男一女だったと記憶するが二人の子どもにも恵まれ育てている。
仕事と家庭と、そのなかで舞踊家として立ってゆくこと、続けていくことには、当時の関西では誠に厳しいものがあった。

現在、彼の音沙汰について私は知らない。
93(H3)年の秋、私がプロデュースしたPlanet5シリーズのなかの「迷宮のシンメトリー」上演の際、
17.8歳になっていただろうか大きくなったお嬢さんを連れて観にきていた彼を見かけたものの、ゆっくり言葉も交わす暇もないままに立ち去っていった。
以後、いつだったか人伝ながら、仕事が立ち行かなくなったのか転身せざるを得なくなり、何処かへ移っていったらしいと聞いたことがあったが‥‥。
いずれにしても音信なく、行方知れずのままだ。


四方の風だよりInformation <四方館 Dance Cafe>


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