能の位上らねば、直面は見られぬ物也


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風姿花伝にまねぶ−<13>


物学(ものまね)条々−直面(ひためん)

 これ又、大事也。
 およそ、もともと俗の身なれば、易かりぬべき事なれども、ふしぎに、能の位上らねば、直面は見られぬ物也。
 まづ、これは、仮了(けりょう)、その物々によりて学ばん事、是非なし。
 面色をば似すべき道理もなきを、常の顔に変へて、顔気色をつくろふ事あり。さらに見られぬものなり。
 振舞・風情をば、そのものに似すべし。顔気色をば、いかにもいかにも、己なりに、つくろはで、直ぐに持つべし。

能では面をつけないことを「直面」というが、
古語では「ひたおもて」ともいい、
1.顔をかくさないでいること。2.直接顔を合せてさし向うこと。などを意味する。
能においては、生身の「顔」を、ひとつの「面」として捉えようという意識があること。
ここでは、演者の「顔」も、単なる素顔ではなく、ひとつの「面」として止揚されている。
能の位−芸の格調、その人としての気品−、これらが備わらなければ、「直面」は見ていられないものだよ、という訳だ。

人の「顔」というものは、その表情も含めて、いかにも不可思議なものではないだろうか。
顔や表情には、その人の人生が深く刻み込まれている。
白川静の「常用字解」によれば
「顔」は形声。音符は彦(ゲン)、彦は厂(額の形)に文(文身。朱色などで一時的に描いた入れ墨)を加え、その色の美しさを彡で示している字である。
頁(ケツ)は儀礼のときに礼拝している人を横から見た形である。
顔とは、一定の年齢に達した男子が、額に美しい入れ墨を描き、おごそかに成人式をしているときの顔つきをいい、「かお」の意味となる。
とあるが、
この成り立ちを見れば、世阿弥が演者の顔を「直面」へと止揚した世界はまっすぐ一本道だ。
まったく「顔気色をば、いかにもいかにも、己なりに、つくろはで、直ぐに持つべし。」である。

――参照「風姿花伝−古典を読む−」馬場あき子著、岩波現代文庫


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