若葉めざましい枯枝をひらふ


      「Lesson Photo in Asoka」より


<身体・表象> −2


吉本隆明の<瞬間論>

私たちがいま、<瞬間>という概念をつくりあげようとすれば、ある時間の流れを考え、同時にその流れが停まったときを考えることになる。
流れてしまった時間は過去で、まだ流れてこない時間が未来として、いま<流れつつあり>しかも<停まっている>というふたつの条件が、瞬間という概念が成り立つために必要になる。

眼で見られる私たちの経験の世界では、瞬間という概念は、さまざまな測度をもった時間の系列が折り重なった<束>みたいなものとして像化されるほかない。折り重なりが多様なためにこの時間の束は流れていながら停まっているという瞬間の像を成り立たせることができる。
言い換えれば、この瞬間のなかには、ほんの少し以前に流れてしまった時間である過去と、ほんの少しあとからやってくるはずの、まだ流れてこない時間である未来とが、束のなかに<滲み>とおっている。

ところで瞬間の束に滲みこんでいる過去は、いちばん新しいもので象徴させればいま感覚の対象になった<そのもの>だとみなされる。どうしてかといえば、感覚で受け入れたものを即座に了解する時間が、単位の<極小の時間性>とみなされるからだ。
おなじように瞬間の束のなかに滲みこんでいる未来は、いちばん近い未来としては、空間的な対象となった自分の(行動の)<自己了解>の時間だとみなすことができるだろう。どうしてかといえば、この時間は極端にいえば、自己了解という(行動の)時間そのものだということもできるからだ。

<時間の束のなかにいる私>とは、ほんの少し過去に感覚し、同時にほんの少し未来に行為している自分が、おなじ身体に統一されているものをさしている。そしてもしかするとほんの少し過去に感覚したものを了解している自分の時間と、ほんの少し未来に行為する自分を了解している時間とが、<おなじ束のうちに統一されている>状態なのだ。
私は行為する自分の了解をつぎつぎに感覚する自分の了解のほうへ流れ作業のように送り込みながら、<現在>の瞬間という意識を保っている、といってよいのかもしれない。

ところで私が感覚するほんの少しの過去は、私のまわりに対象の山を積み上げる。これが誤解されやすい言い方ならば、さまざまの対象をさまざまな形や素材や表面として私のまわりに出現させている。私がそれを了解しているかぎり、私のまわりに積み重ねられ遠近をつくってゆく対象の群れもまた、出現することをやめないことになる。
私がこの状態を瞬間の束である現在として設定しようとすることは、感覚する過去と行為する未来とを、了解の時間として自分の身体で<統覚>することを意味している。
この瞬間には時間の流れは停滞し、切断されることになる。そしてこの状態を<俯瞰>することができたら、私が自分の関心のある事物に囲まれている現実の世界の風景がそっくり眺められることになっているはずだ。

<言葉>がこの瞬間に入り込めるとすれば、停滞し、切断されるこの時間の流れのところにしかありえない。そしてほんの少しの未来の行為とほんの少しの過去の感覚作用のあいだに手渡される時間の接続のかわりに、ほんの少しの過去の感覚とほんの少しの未来の言語行為のあいだに時間の回路をつくりだせばいいことになる。そしてこの言語行為の回路は、行為の回路とまるで直角にちがう方向に、未来を設定することになる。但しこの感覚と言語行為との回路はただ<話される>言葉にしかすぎない。

<書く>という言語行為が登場するとまったくいままでとちがったことになる。たぶん感覚のかわりに感覚の像が、ほんの少しの過去を了解する時間の像をあらわし、書く(記述する)という現実の行為と純粋の言語行為のふたつに分割される。そして記述という現実の行為と、まだ正体がわからない純粋の言語行為という、二重の行為をほんの少しの未来から招きよせることになる。
この二重の行為の<あいだ>、書くという現実の行為と純粋の言語行為のあいだをつないでいる回路は、<表現>だといってよい。

瞬間の束である私の<現在>はここまでやってきて、大きな<混沌>に出あうことになる。
むしろ混沌をつくりだすことで、感覚と行為のあいだに書くという言語行為を介在させているのだといった方がいい。

    吉本隆明著「ハイ・イメージ論Ⅲ」ちくま学芸文庫より抜粋。


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