をとこべしをみなへしと咲きそろふべし


     「Lesson Photo in Asoka」より

<身体・表象> −3


<身体の反射力と吸収力>

昨日(5/1)、二週間ぶりの日曜の稽古にピアノのS君が参加した。
Kが体調不全を訴えていたので、あまり本格的にはできそうもないかと思っていたのだが、いざS君の演奏で即興を始めると、そんな懸念もなんのその、かなりの本息で先ずは二十数分をJと交互に踊りきっていた。
このところずっと、KとJ、いつも二人で同時に動くのを見てきたから、各々が交互にsoloで展開するのは意外に新鮮なものとして受け止められた。彼女らにとっても同じくそうだったのだろう。
彼女らの感覚=運動としてのシェマは、S君のピアノ演奏というひさかたぶりの新鮮な刺激を得て、常より研ぎ澄まされダィナミックになったものとみえる。

われわれの感覚は知覚的側面と感情的側面をもっている、といったのはベルグソンだが、
感覚のうちの知覚的側面は、実際は行動しないまま、まえもって感覚の対象に対する行動の可能性をデッサンする。言い換えれば、対象が私に対してもつ潜在的な作用可能性を対象に反射する。
他方、感覚は身体そのものに現実的に作用する側面をもっているが、これは感情的側面といえるものだ。
そこでベルグソンは、知覚が身体の反射力をはかる尺度だとすれば、感情は身体の吸収力をはかる尺度だ、と考えたらしい。
感覚というものはきわめて多義的なものだが、その感覚のふたつの側面=知覚や感情に作用しまた反作用し、それが身体=行動図式へと方向づけられてゆく。そのときこの多義性はより一義的なものへと変容するのだ。
このことに倣えば、身体表現の時間と空間には、この感覚の多義性と一義性のたえざる変容過程が、豊かにダィナミックに織り込まれることになる、ということだ。
表現者にとって、知覚に対しての身体の反射力、感情に対する身体の吸収力が、どれほど豊かなものであるかが、つねに問われている。


以下に、万葉集巻二よりよく知られた相聞一題をひく

   −大津皇子石川郎女に贈れる歌一首−
あしひきの山のしづくに妹待つとわが立ち濡れし山のしづくに
   −石川郎女の和へ奉る歌一首−
吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを


四方の風だより Information <四方館 Dance Cafe>


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