水音とほくちかくおのれをあゆます

 「In Nakahara Yoshirou Koten」
<身体・表象> −6


<身分け、錯綜体としての身>
              引用抜粋:市川浩・著「身体論集成」岩波現代文庫 P7〜P12


生き身である<身>は、自然の一部でありながら、動的均衡を保ちつつ自己組織化する固有のシステムとして自然のうちに生起する。
<身>は相対的に<閉ざされ>、まとまりをもったシステムだが、自己組織化はたえまない<外>との相互作用のなかではじめて可能となるのだから、<開かれた>システムでもある。
<身>の組織化に応じて、自然は分節化され、意味と価値をもった有意味的な環境が生ずる。
その意味で<身>の生成は、<身>が自然を分節化することであり、また歴史のはじまりであるとともに、すでに分節化された文化的世界を受け入れつつ、それを再分節化することにほかならない。
しかし<身>は、一つのレベル、一つの相においてのみ生きるのではない。<身>の自己組織化には、生理的レベルから、家族的社会的関係を含む感覚−運動的レベル、さらに複雑な社会関係のなかでの再組織化の諸段階を経た意識的−行動的自己組織化にいたるさまざまのレベルがある。
また、これらの自己組織化は、記号や用具や制度など、人間が歴史的に産み出したものを媒介にした文化的自己組織化と切り離すことができない。<身>の個人的自己組織化は、文化的・集団的自己組織化の形態によって変化しうるのである。


こうして<身>はさまざまのレベルで有意味な環境をもち、環境のもろもろの意味を指向しつつ生きるが、そのとき同時に、<身>それ自身がさまざまの意味をもつものとして、前意識的なレベルで分節化されている。意味や価値は、<身>が環境に与えるものであるとともに、環境によって<身>に与えられる。つまり環境の分節化は、逆にいえば<身>の分節化であり、両者は循環している。
いうならば、自然−というより歴史のはじまりとともに、すでに分節化された世界−を受け入れつつ、それを再分節化するとき、世界の分節化の反照として、同時に<身>みずからが分節化されるのである。


われわれが生き、行動するさい、われわれは、<身>で分けた世界を意識している。しかし、反射的な反応のように、意識する必要のない、あるいは意識されない<身>による世界の分節化のレベルがあり、われわれは意識レベルはもちろん、前意識レベルでも、<身>で分けた世界の文節的風景を生きているのである。それは同時に<身>みずからが、潜在的に分節化され、世界の姿を介して<身>が分けられることにほかならない。それは一つの共起的な出来事であり、一つの事態の両面である。
このような事態を<身分け>と呼ぶ。
世界をパースペクティヴのうちにおさめることは、暗黙のうちに、<身>をパースペクティヴの原点におくことである。遠近法が、ある視点から見られた構図であるとともに、構図そのものが、虚点としての潜在的消点をもつように、<身>は世界を把握する顕在的な原点であるとともに、世界の秩序が反照的に浮かび上がらせる潜在的消点でもある、という二重性をもっている。


<身>の概念が、われわれの生の現実にとってどれほど身近であるかは「身」を含む熟語がきわめて豊富であることによくあらわれている。
中国からの漢字が渡来する以前、大和ことばとしての<み>は、「身」であり「実」でもあったろう。
「身」と「実」は同じ語源とされる説が有力であるが、このこと自体<み>のひろがりを示している。


「身が入る」といえば、生理的レベルと同時に精神的レベルの意味にもなる。
「栄養が身につく」のは生理的レベルだが、「教養が身につく」となれば、その<身>は精神的自己にも近い。
「心に沁みる」というよりも、「身に沁みる」といったほうが、却って真に切実さを感じさせさえする。
「身がまえ」は、身体のあり方やよそおい、行動の準備態勢であるとともに、心のかまえでもあり、「身だしなみ」などと同様、精神的・倫理的ニュアンスをおびてくる。
「身を立てる」とは生計を立てることであるとともに、社会的に認められる存在として「身を起こす」ことでもある。しかし「身を起こす」という表現は、単に起き上がるという即物的な動作の意味でもあり、<身>のあり方は相貌的特徴に結ばれた類比的な層構造をなしている。
「わが身」は自称だが「おん身」は他称である。「身内」は拡大した自己であり、「身のほど」といえば社会的地位・境遇ともなり、「ひとの身になる」は他者の立場になることであるが、ニュアンスとしては少なからずより親身に、「身を入れて」考えていると感じられるだろう。


こうして人間は、もろもろの<身>のレベルを多様な仕方でたえず統合しながら生きる全体存在として「身をたどる」、つまり<身>の処し方に応じてさまざまな仕方で<身>を統合する。
しかしその全体は実体的な統一ではない。<身>は、<他>とのかかわりのなかで、多極分解する可能性につねにさらされた錯綜体としての危うい統一なのだ。
統合化された錯綜体としての<身>は当然<こころ>のレベルをも統合しているから、<身>は心をも意味する。「こころ」は「み」と根本的に対立したものではなく、活動する生き身のはたらきが「凝り集まった中心」であり、つねに此処である身の原点の在り処だろう。


こうした<身>の諸相が、<常>の<身>であるとすれば、<稀>あるいは<奇>のあり方としての<身>というべきものがある。
「身変わり」は、元来祭りの前の物忌みのため、常人と異なった状態となり、神事にあずかる身となることだが、このことを広くとれば、<常>の状態でし潜在化している身の異なった形態化への可能性を孕むものとして受けとめられよう。
<身>は他者をふくめた世界とのかかわりにおいてある関係的存在だが、そのかかわりはさまざまのレベルでの拒否的な関係の可能性をふくむものであり、またその統合は、多重人称性が暗示するような多極分解的な形態化の可能性を孕んでいる。
<身>がかようにあやうい存在であるならば、いかなる人間にも<身変わり>の可能性は存在する。ハレとケのあり方はもちろん、憑依をはじめとするいわゆる狂気の状態のあり方も、<身>が本来、世界とのかかわりの転換可能性を孕んだ不安定な動的統合であるかぎり、<身>の潜在的な統合ないし形態化の可能性として存在するのである。


自己組織化にはその<図と地>あるいは<表と裏>ともいうべきものがあり、支配的・意識的な自己組織化の裏には、その逆相ともいうべき世界があり、可能態としての多極分解的なアモルフな形態化が潜在しているが、これはさまざまの<身変わり>においてあらわにされ、あるいは象徴的に表現されるだろう。
図と地あるいは順相と逆相というのは、支配的意識(常識的分節化)に中心化した捉え方であるから、中心の移動や逆転が可能であり、その全体はたえず<他>へ脱出し、非全体化する可能性を孕んでいる。かようなあやういあり方が、<身>の自己組織化の実態である。
つまりは<身変わり>において身分けされる世界の異相というものもあるわけだ。
こうした多重的な意味発生が重層化し、記号や用具やもろもろの文化的産物を通じて、それらの意味が共有され、伝承されているのが、われわれが体験する現実世界なのだ。


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