夏めいた月かげを掃く


    「In Nakahara Yoshirou Koten」


<日々余話>


お断り:この記事はエコー内グループ「エコー!ユーザー会」の掲示板に寄せた一文とほゞ同じものです。


<書くこと・読むことの倫理を>


言行為にはパロール(話す行為)とエクリチュール(書く行為)があるが、
つくづくこの二者の相違は遠いものだと今更ながら思い知らされることが多い。
話す行為において、人はその瞬間々々の表情や身振りを伴い、言葉をもって話すには違いないのだが、いわば全身全霊でもって話す。
だから言語の本来有している多義性=曖昧性をものともせず、話し手の本意を悟ることができる。この場合、聞き手もまた言葉を媒介としつつも、身をもって知るのである。
思いや意志というものはつねに感情に彩られているものだということを決して忘れてもらっては困る。その思いや意志がいかに冷静に客観的に語られているかに見えようと、だ。
否、むしろ、思いや意志と感情とは別々の乗り物なんかじゃなく、同じものの両面、人の志向性としての表象=働きの表と裏といってもいい。
議論の場においても、お互いにその場に臨み意見を述べ合うのならば、その発言が甚だ論理性を欠き未熟なものであっても、誤解やそれに基づく諍いになることは比較的少ないし、仮に一時的にそうなったとしても、対面する場のなかで軌道修正をすることはそれほど困難ではない。


しかし、同じ言葉を媒介としても、書くとなればまったくそうはいかない。
そんなことは百も承知のうえ、わかりきったことじゃないかとみなさん仰りたいかもしれないが、止まれ、その一文をものするためにどれほどの推敲を重ねたか、なによりもまず我が身に問うべきだ。
ブログというもの、ネット上での書き込みという行為に、
人はかくも自己検証や内省を忘れ、かたときの推敲も惜しみ、逐語的な走り書きを繰り返し、泥沼化としかいいようのない堂々めぐりにも似た営為を繰りひろげてしまうものか、とつくづく悲嘆にくれるような現実に多々遭遇しているのは私一人の経験ではあるまい。
以下は、エコー内の或る人の記事に私がコメントとして寄せたものだが
「自慰行為にも似たレベルでネットを徘徊し、自己の卑小な存在証明を残して喜んでいる人たちが席巻しているのは、いまのところ必要悪として諦観するしかないのでしょうね。
そういう恣意的なレベルを離れて「読み」の問題を成立させていくことはとても困難なことではありますが、端的にいえば判る人には判るということではないでしょうか。
絶対的少数派ではありましょうが、対象への「読み」において、有意に展開しうる「読み」、発展性のある「読み」といものが必ずある筈ですし、仮に発言者に些かの恣意性が認められるに場合にせよ、それを捨象し、内在する問題を汲み上げ止揚していく「読み」というものを自らに課していくことが大切なのであろうと考えております。」
上述の「読み」の徹底、深化を我が身に課すことなしに、「書く」ことの倫理も身につく筈がないというものだ。


エコー内グループとしてエコー!ユーザー会が5月7日に発足し、瞬く間に100余名の参加を数えたが、
現時点(6/1 04:21)で、掲示板にスレッドが34件並び立っている。
この賑わいを是とするか、乱立とみて否とするか。
おなじく、足跡総数 13982件を数えている。
この来訪の数を、真摯な関心の強さとみるか、野次馬的物見遊山の顕れとみるか。
これらの判断は容易にはし難いものがある。
なぜなら、このグループの成立根拠たる理念と、その理念に基づいた戦略・戦術が充分に会員共有のものへと未だ形成されていないこの段階では、
いや、理念としては甚だ抽象的に過ぎるが、グループプロフィールの概要に謳われた
「エコー!が好きだから、もっと居心地のいい場所にしていきたい。「エコー!ユーザー会」はそんな私たちユーザーの気持ちや言葉が集まる場所です。ユーザーの、ユーザーによる、ユーザーのための場所。そしてそれらの声を運営事務局に届けることができるグループを目指します。」としてもいいだろう。
だが、戦略としては「エコー!ユーザー会ガイドライン」をもってしてそれとするには些か明証性に欠けるだろうし、戦術レベルではまだ影も形もないに等しい現況では判断留保せざるを得ない、と私は受け止めている。


まだまだ、この舟は、何処へ向かい、何処の岸辺に辿り着くのか、まったくもって未知数なのだ。
だが、有意の人々は、このなかに多数居られる筈と、私は確信している。


だから、再度、繰り返す。
「エコー!ユーザー会」が100余名からなるグループであることは、
参加者各個人にとってすでに明きらかに公的な場であること。
書くことは、いっさいが公的な発言であること。
ならば、読みに徹し、読みを深めるべきだ。
内在する問題を汲み上げ止揚していく「読み」というものを自らに課していくという「読み」の倫理を体現するなら、
そこには自ずと「書く」ことの倫理も発現してくる筈だ。


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