逢へば別れるよしきりのおしやべり


「In Nakahara Yoshirou Koten」


<古今東西> 


マルクスの愛・贈与論>


はじめにことわりおくが、恥ずかしながら、私はこの年に至るまで、マルクスの著作を直かに読んだことはない。すべて誰かの書を通して、ということはその書き手の批評や解説の類、鑑識の眼を通してであり、その書き手の数も十指に余りあろうが、それらの集積のなかでマルクス像を結んできたにすぎない。いくら振り返っても、遠い昔に、誰でも知っているエンゲルスとの共著「共産党宣言」を読みかじったくらいの体たらくなのだが‥‥。


初期マルクスの「経哲草稿」には、愛に触れたこんな一節があるとは些か不意をつかれた感がした。
「きみが愛することがあっても、それにこたえる愛をよび起すことがないならば、換言すればきみの愛が愛として、それにこたえる愛を生み出すことがないならば、きみが愛する人間としてのきみの生活表現によって、きみ自身を、愛された人間たらしめることがないならば、きみの愛は無力であり、一つの不幸なのである。」


この言を引いていたのは、中沢新一氏のカイエソバーシュ-3の「愛と経済のロゴス」
これはまさしく愛の互酬性、贈与としての愛の言説ではないか、と。
自分自身を愛するのではなく、他者を愛することによって、かえって自分自身が愛される人間になるという、愛についてのこの謂いが格別特殊なものでもなく、ごく自明の言質というべきなのだが、マルクスの言というだけで、私が抱いてきたマルクスへの既視感を逸脱して、私にはかなり新鮮に映るのだから奇妙なことではある。


本書で中沢は「資本論」に結実していくマルクスの思考は、その出発の時点では贈与論の思考をあらわに表に出しながら展開されていたものとし、マルクスは最後まで贈与論的な思考に支えられていたと想定したうえで、
マルクスの思考の背景に流れる、愛の互酬性、贈与としての愛を読み解き、貨幣の交換原理に互酬と純粋贈与の贈与論を対置させ、すでにグローバル化してしまった資本主義社会に対抗し、これを突き抜けうる人間世界の理論を構築しようとする。


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