巌に花の咲かんが如し

N-040828-088-1
   「In Nakahara Yosirou Koten」


風姿花伝にまねぶ−<17>


物学(ものまね)条々−鬼


 是、殊更大和の物也。一大事也。凡、怨霊・憑物などの鬼は、面白き便りあれば、易し。
 あひしらひを目がけて、こまかに足手を使ひて、物頭を本にして働けば、面白き便りあり。
 真の冥途の鬼、よく学べば、恐ろしき間、面白き所更なし。
 まことは、あまりの大事のわざなれば、これを面白くする者、稀なるか。
 先、本意は、強く恐ろしかるべし。強きと恐ろしきは、面白き心には変れり。
 抑、鬼の物まね、大なる大事あり。よくせんにつけて面白かるまじき道理あり。
 恐ろしき所、本意なり。恐ろしき心と面白きとは、黒白の違ひ也。
 されば、鬼の面白き所あらん為手は、極めたる上手と申すべきか。
 さりながら、それも、鬼ばかりをよくせん者は、殊更、花を知らぬ為手なるべし。
 されば、若き為手の鬼は、よくしたりと見ゆれども、更に面白からず。
 鬼ばかりをよくせん者は、鬼も面白かるまじき道理あるべきか。委しく習ふべし。
 たゞ、鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し。


物まね条々の最後の抄は<鬼>である。
先に、神と鬼の区別を述べたて、神は「舞懸り」と結んで、鬼についての語り口は俄かに冴えてくる。
冒頭、鬼の芸は、古くからの観阿弥世阿弥たち大和申楽の十八番ともいうべき出し物であり、もっとも大事の芸だという。
「恐ろしき心と面白きは、黒白の違ひ」というように、相矛盾する「恐ろしき」と「面白き」をいかに統合し止揚するかが、世阿弥にとっての難題であった。
すでに「力動風鬼」と「砕動風鬼」の対照的な概念がこれまでに登場している。
世阿弥は晩年になるにしたがって、「形は鬼なれ共、心は人なるがゆへに」と、
手足を細やかに使う「砕動風」へと工夫を重ねてゆくが、観客から好まれ喝采を浴びるのはいつまでも大仰な「力動風」であったろう。
観客に迎合するのみの「鬼ばかりをよくせん者」が氾濫するなかで、世阿弥はそれらを「花を知らぬ為手」と断じ、「鬼の幽玄」の位をめざして殊更にこだわっていく。
「別紙口伝」には、「怒れる風体似せん時は、柔かなる心を忘るべからず。これ、いかに怒るとも、荒かるまじき手立なり。怒れるに柔かなる心をもつ事、珍しき理なり」という。
「怒れる風体」に「柔かなる心」を、「恐ろしき心」に「面白き」を。
互いに相反する二面がひそかに支え合い、高次のレベルで調和されるとすれば、その芸境は不可思議な格調を有しているにちがいない。
「鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し」とは、まさに鬼の幽玄体といえるだろう。


――参照「風姿花伝−古典を読む−」馬場あき子著、岩波現代文庫


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