炎天まうへにけふのつとめの汗のしたたる

980801-008-1
   「東北青森・十和田湖畔にて」


<言の葉の記>


<蝉時雨と空蝉>


昨日、今日と、少しばかりの恵みの雨となったものの、空梅雨である。
各地で断水や取水制限が起こっている。
かと思えば、局地的な豪雨が襲い、地震被災地に追撃ちをかける。
異常気象という言葉ももう耳に馴染み過ぎてしまったが、
もろに影響を受ける日々の暮らし向きには災厄そのもので、いつまでも馴染みきれるものではない。
ところで、早くも蝉しぐれの季節となった。
まだ五体を包み込むほどの幾百、幾千もの大合唱ではないが、愈々本格的な夏の到来だ。
蝉時雨−日本語の比喩的な語彙は豊かなものだ、とつくづく思わされる。
鳴くのはもっぱら雄の蝉だということはもちろん知っていたが、
鳴かぬ雌の蝉を「唖蝉」というそうな。
山本健吉によれば「蝉」の歌は、万葉集に一首あるのみで
 石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京師し思ほゆ
       −大石蓑麿(巻15)
他は、「蜩−日晩(ひぐらし)」と詠んでいて、古代の人はひぐらしを蝉の総称としていたようだ。
しかし、蜩なら秋の季語であったろうから、夏の季語としての蝉や蝉時雨の定着はぐっと時代が下ることになる。
「空蝉の−うつせみの」は枕詞だが、蝉の殻である「空蝉」は「現身−うつそみ、うつせみ」に結びつく。空蝉の音を借用した訳である。
現に生きているこの世を「仮の世」とする考えが、空蝉の表記へと誘っていったのだろう。
 うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟背と我が見む
       −大伯皇女(万葉集巻2)
 うつせみの浮世のなかの櫻花むべもはかなき色に咲きけり
       −安達長景(長景集)
時代を違える二首に「空蝉」の微妙な変容がみられるようだ。


蝉の句散見
 ひるがへる蝉のもろ羽や比枝おろし    蕪村
 蝉なくや我が家も石になるやうに     一茶
 唖蝉をつつき落として雀飛ぶ        鬼城
 夜蝉ふと声落したる闇深し         年尾
 石枕してわれ蝉か泣き時雨        茅舎
 声悪き蝉は必死に鳴くと云ふ       瓜人


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