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「ローマのコロセウムにて」


<日々余話>


<瘡蓋−かさぶた>


人の死や喪失はどんな場合であれ哀しみや悲しみをともなうものだ。
死者はだれでも悼まれてよいだけの重さを此方側−生者たちにのこして立ち去ってゆく。


吉本隆明は「追悼私記」のあとがきにこんなことを記している。
「現在でも、ひととひととの関係は、あるばあい痛切−切実−でありうる。だが痛切−切実−な言葉がその関係を媒介することはありえない。それは言葉がイロニーや羞かしさを伴わないでひととひととのあいだの痛切−切実−にわりこむことが不可能になっているからだ。別の言い方をすれば、現在では言葉はその程度の信用度しかなくなっている。言葉がまったく信じられると思いこんでいるものも、言葉をまったく信じているふりをしているものも、あとを絶たないが、それこそ真っ先に消失しなくてはならない倫理のひとつだとおもえる。死の痛切−切実−はいよいよ瞬間的になってゆき、すぐに忘れられ、土砂を被せられてしまう。」


痛切−切実な感情や想いというものは、たしかにいくら言い尽くしたとしてもなおあまりあるものがある、というのはそのとおりだし、そこには言葉の限界というものがあるのかもしれない。
しかし、言葉とはあるものやことをその限りにおいて封じ込めてしまうものだし、また同時に呼び起こすものでもあろうから、どんな言葉もその痛切−切実−を覆い尽せはしないとしても、言葉を尽すことの意味が掻き消えるものでもあるまいし、記憶が<記憶を想起したそのときに作られている>とするものならば、言葉を尽くそうとしないかぎり記憶として想起することも起こりえないものとなるだろう。
たえざる想起とは、たえざる言語化に通呈するということか。
死や喪失からくる痛切−切実−な重さとは、それに耐ええないような、我が身がうちひしがれるものであってはならぬということ。その重さを受けとめきることは、たえざる想起のうちにあり、たえざる言語化のうちにあるといえようし、その瘡蓋−かさぶた−は剥がれつづけねばならないだろう。


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