くらがり風鈴の鳴りしきる

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   photo「うしろすがたの山頭火」より

<行き交う人々−ひと曼荼羅>


<おやじのこと、おふくろのこと>


父や母についてなにか書きとめてみようと思っても、父・母という表記では妙にあらたまって筆がすすまない。これもまた大阪の下町、ごく下世話な育ちゆえなのだろうが、やはり我が家ではおやじ・おふくろで運ぶのが似つかわしいし落ち着けるというもの。


もう半年くらいまえになるのだろうか。
ある日、なにを思い立ってか、小さなフォトフレームを買ってきて、死んだおやじとおふくろの写真をそれぞれ、いつでも眼に入るように居間の棚に並べて置いたのだった。食事をしようとテレビを見ようと或いは本を読んでいようと、視界には必ず入るところに小さな二枚の写真は仲良く鎮座している。
仲良くといっても、生前のおやじやおふくろが、とくに仲の良いほどの夫婦だったかといえばそんなことはあるまい。戦前のことだし、当時としてはありきたりの見合いというほどのこともなくお互い知らない同士の他人様の世話による紹介結婚のようなものだったろうし、戸籍によれば、長男の誕生後にやっと入籍しているところをみれば、跡取りを得てこそやっと夫婦たりえたというよくある家父長制色濃いパターンだったとみえる。
おやじは明治44(1911)年生れ、十年あまりにおよぶ長い闘病生活のはてに、昭和50(’75)年、おおかたの親族に見守られつつこの世を去った。享年64歳。あれからもう30年を経ている。
おふくろは大正3(1914)年生れ、連れあいに死なれてよりなお25年の歳月を平穏無事に生き、平成13年(’01)、その日は休日だっこともあってか同居の妹家族のだれにも気づかれぬままに息を引き取っていたという呆気なくも静かな往生だった。享年87歳。
私は5人兄弟の下のほうだから、したがって家には仏壇も位牌もないし、墓参だって年に一度行くか行かないかといったいい加減さで、供養とか祀りごとには縁遠い。長兄宅で毎年催される盆の行事にも、訳あって四年前から欠礼することにしている。
そんなこんなで、彼らの面影に触れる機会もずいぶん間遠になっていたのだが、二人の写真を並べて置いてからは、いやでも眼に入ってくるおやじやおふくろの決まりきった写真のなかのいつもの表情に、時折ふと甦ってくる古い記憶のなかに身をおいて、なんとはなく自分の来し方をふりかえり眺めているような時間をもつようになった。


あれは私が六つか七つくらいだったろか、小学校の一年かせいぜい二年までだったろう。
その頃のおやじは、すでに一度脳溢血で倒れていた筈なのだが、大事に至らなかったとみえて、夕刻近くになると、近所の居酒屋−この頃は居酒屋といういいかたはせずたんに飲み屋といっていたが−によく呑みにいっていた。
ある日、夕餉の支度を終えたおふくろが「お父ちゃん迎えに行くから一緒に行こう」と私に声をかけたのだろう。なんとなく気恥ずかしいような落ち着かない感じを抱きつつ、母親と手をつないで歩いて出かけたのだった。
近所といっても子どもの感覚からすると少しばかり距離はある。私たちの家は昭和通りとも租界道路とも呼ばれた幅25メートルほどの通りに面していたのだが、これは当時としてはかなりの大通りではあるが、その呼称からいっても空襲であたり一面すっかり焼け野原になったればこそ誕生しえた道路だったのだろう。
その我が家から裏のほうへ、というのは北東の方角になるのだが、2丁ばかり行くと九条新道という商店街が1km余り北西から南東へと伸びている。
この商店街は戦前からずいぶんと賑わった通りで、当時も映画館が六軒も七軒あったほどで、近在ばかりでなくかなりの遠方からも客足があったという。戦前にはちょいとした劇場もあって、人気者だったエンタツアチャコの漫才や市川右太右衛門の一座なんかがよくかかっていたと聞かされたこともあったっけ。
この商店街をまっすぐ横切って行くと、街並みの雰囲気がガラリと変わって松島遊郭の界隈となる。勝新太郎の映画「悪名」の主人公八尾の朝吉が女郎の足抜けだったかのエピソードを残したのは戦前の松島遊郭で、これは尻無川を挟んだ川向こうだっのだが、それが昭和20年3月の大阪空襲でほぼ壊滅状態となって、戦後は川の此方へと移ってきたのだった。赤やピンクのどぎついネオンの色に染まったこの界隈は、子ども心におどろおどろしくも妖しげで、中学生くらいまではそこを通る時はいつもなにやら後ろめたさと早まる動機に視線は定まらずキョロキョロと宙を泳がせながら歩いたものだ。
その遊郭界隈の戸口にあたるような通りの一軒の居酒屋の前で、おふくろが足を停める。店の中を覗きこむが自分からは入ろうとはしない。おやじの姿を見つけたらしく、店内のほうを指しながら「あそこに居るから入って呼んできて」と私にいう。ガラガラとガラス戸を開けたら、カウンターになつた奥のほうに背中を丸めて飲んでいるおやじの横顔が見えたので、そばまで駆け寄って声をかけた。「お父ちゃん、ご飯やから帰ろうって」 おやじの強面の顔つきが、それでも目尻の辺りだけニコリと皺を寄せて私のほうを見やる。
と、そこまでは記憶にあるのだが、それからはたして、おやじとおふくろと三人で家路についたものかどうか、まったく記憶が飛んでしまっている。ほんの少しだが屹り癖のあっただんまりやで無愛想なおやじが、子連れで女房が迎えに来たからといってすんなりと腰を上げる筈もなかろうから、おそらくは「すぐ行くから先に帰ってろ」という具合ではなかったか。まだ子ども心に怖いのが先立つようなおやじであったから、三人で連れ立って家路についたにせよ、楽しいほどに和気藹々ということにもならないのだが、記憶にないところを思えば、やはりおふくろと二人してもと来た道をすごすごと帰っていったのだろう。  −(この項おわり)


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