しぐるるや石をきざんで仏となす

041219-023-1
Information「四方館 Dance Cafe」


<身体・表象> −9


<菅谷規矩雄の「詩的リズム
 ――音数律に関するノート」からのメモ−2>


今宵は、三ヶ月ぶりの「四方館ダンス・カフェ」の第二夜である。
題して「Objetのある風景のなかで」
二ヶ月に一度くらいのペースで四、五回かさねてみたいと思っていたが、少しばかり長い間合いとなってしまった。
その三ヶ月余りのあいだに、私自身の頭のなかの交通整理はいくらかは進んだように思える。論理的明晰な頭脳とはほど遠いから歩みも鈍く、交通整理とはいったものの理路整然とは少しもならないのだが、なにやら煮詰まってきているとの感がする。ここを突破すれば視界は意外にひらけるのだろうと思われもするが、理論と実践は別次のことだし、私たちの世界は実践の場にしか価値はない。
さて、今宵の会−即興によるDance-PerformanceとFree-Talkの一夜は、オブジェと競演することとなったが、はたしてどんなことになるのだろうか。


以下は前掲載につづく菅谷規矩雄の作業仮説ともいうべき本書の第一章「詩的リズム」より要約の後半部分である。


13、用語について
このノートの主題は<構成力としてのリズム>を論ずること。
a、音−音節
b、拍−等時拍。無音の拍=休止を含む
c、小節−句
d、律−定型化された句、さらには行
e、行−リズム構成のマキシマム
f、篇−作品、短歌ならば一首
14、休止とはなにか
<休止が群団化の標識>であることを、時枝は指摘したが、
詩的リズムの構成にあっては、この休止が長短=二様のあらわれかたをすること
ハマノ(-)マサゴト(-)ゴエモンガ(−)
この十二の音節は、次の3・4・5音パターンとのあいだに、無音の拍=休止(−)を含むことを必須としている。
15、ゼロ記号
時枝も三浦つとむも、音数=拍数と前提したまま、<休止>を<無音の拍>として位置づけていない。
他方で構文論においては<ゼロ記号の陳述>とい概念を提起し、言語過程説の基幹に据えたにもかかわらず、リズム論においてそれと対応すべき<休止>の理論化に及んでいない。
16、加速の構造 & 17、複合 
タカイ ヤマカラ タニソコ ミレバ ウリヤ ナスビノ ハナザカリ
3・4・4・3・3・4と、最初の三音節を基準として、次の四音節のテンポは加速化されるが、それと同時に、日本語本来の等時拍を保持しようとする潜在力=規範性に対する圧迫でもある。この圧迫に対して生じる抵抗は、後続の小節のみならず、先行の小節にも反作用を及ぼさずにはいない。その結果、最初の小節に無音として潜在していた休止−モティーフ=発語のインパクトとしての無言−を拍として顕在化させる。
最後の音節−ハナザカリ‥‥の五音は、やはり同様に加速の傾向を含むが、しかし、それまでの小節群の規則性−ここでは4拍子、に対する矛盾をなす。
かくして、ハナザカリの五音は、基準テンポの加速の最大値を含むとともに、リズム単位=小節の複合・拡大をともなって、はじめい構成上固有の位置をうる。
このような複合小節−時価としては2小節の長さを含むが、構成上は分割し得ない単位、の成立こそ、日本語の詩的リズムにおいて主要な特質をなす。
18、減速
加速のピークは、当然、行末=休止の直前ということになる。 カとリの間に存在し、最後のリはむしろ休止に向かって減速の支配下に入るものと暗示されている。
/○ウリヤ/ナスビノ/ハナザカ/リ○○○/
 <加速>-―――――――――<減速>休止
行の構成力は、加速に対する反作用のあらわれである休止=無音の拍に求められる。
休止は、減速の作用を内包している。
19、上句と下句
20、歌謡の定型−行の転換
隆達節のように、七七七五の近世歌謡の定型−3・4・4・3/3・4・5‥‥の音構成は、それぞれ4拍子4小節からなる二つの行、8小節32拍の等時性とみなされる。
後半末尾の五音節は、3拍分の休止を含む2小節=8拍からなる複合小節であり、3拍分の休止には終止の機能が与えられている。
21、二部構成・三部構成
室町期の歌謡に、七・七・七・七(五)の型が多くみられるのは、短歌との対応と分岐の過渡的な状態が暗示されている。
短歌−五・七・五・七・七
歌謡−七・七・七・七(五)
本来、三部構成としの歌謡として発生した短歌が、二部構成へと強化されてゆくにしたがって、
初句五音の機能が無化されてゆき、ついには四句二部構成の作品としての固有の構成原理が求められたのである。
22、終止
○ハマノ/マサゴト/ゴエモンガ○○○/
○ウタニ/ノコシタ/ヌスットノ○○○/
○タネハ/ツキマジ/シ・チ・リ・ガ・ハ・マ/
行の固有性としては、3・4・5音における複合小節は加速のピークをなす−と同時に、5音=8拍の複合小節は、基準テンポに対する原則のマキシマムをなす。
シチリガハマの6音、いわゆる字あまりは、七五構成の行末を、より終止的に減速せしめ、それによって三行ひとまとまりとして完結せしめる。
23、「若菜集」における結句
七五調は、それ自体に終止を外化する定型性を有してはいない。
したがって七五調の長詩は、本来無構成的で、調子にのったら止まるところを知らないという条件を負っている。
島崎藤村は「若菜集」において、その作品或はストローフの終わりに7・7音節をもって終止の方法を際立たせている。しかもその殆どは、3・4音構成である。
しかし、この型を、古代の長歌における終止に関連づけるべきではなく、藤村の方法は新古今或は古今集以前には遡れず、短歌的なるものに類する。
24、<風の又三郎>−シンコペーション
現代にいたる近代詩人のなかで、詩的リズムの定型性に徹底した自覚を貫いたのは宮沢賢治だろう。
  どつどど どどうど どどうど どどう −8・7音の16拍
  ああまいりんごも吹きとばせ −8・5音の16拍
  すつぱいりんごも吹きとばせ −8・5音の16拍
  どつどど どどうど どどうど どどう −8・7音の16拍
日本語のリズム定型が、七七と七五の行の本源的な等時性を有し、本来は十五の音節と一つの無音の拍=休止を行とする単位でありうることを暗示している。
リズムに関するかぎり、賢治の到達したピークは、この歌や「北守将軍と三人兄弟の医者」の語りが示しているように、七五音律の完全な口語化にあったといえよう。


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