風の中声はりあげて南無観世音菩薩

N-040828-086-1


<身体・表象> −10


<菅谷規矩雄の「詩的リズム
 ――音数律に関するノート」からのメモ−3>


「発生の原基」
01、前=言語あるいは場面
吉本隆明が韻律の本質にふれて、言語の条件の底辺に想定した<非言語時代の感覚的母斑>に対応するものを、現存における非言語的表出の形態のうちにさぐりもとめてゆくとき、非=言語的であるとともにかならず前=
言語的であるようなひとつの恒常的な発生領域にゆきあたるだろう。
その発生領域とは、手拍子や打器や叫び声やの音声反応の場面に、言語の発生過程と同様に、音楽や舞踏や劇の発生=本質をみることもできるだろう。
02、手拍子
<場面><リズム><構成>
X−フラメンコの手拍子−○○◎○○◎○◎○◎○◎
a−手締め−3.3.3.1の手拍子
前者Xに関していえばふたつの側面を指摘することができる。
第一に手拍子が、言語(詩)・音楽・舞踏という、表現としてはすでにそれぞれ固有の水準と位相へ分化し発達をとげた三様の形式を、ひとつの共通の根源へむかって結合しようとする機能をもつことである。
外化され<時=空>に定着するものは、それじたい表現であるところの<リズム=場面>である。この場合、時枝誠記のかんがえた<言語の場面としてのリズム>という概念にほぼ対応している。時枝のリズム観に対する吉本の批判は、この<場面>が本質的に意識の外化としての<構成>をふくんでいる、とみるところに発していると思われる。
第二に、根源に対する局限ともいうべきもの、表現としてのそのリズム特性である。
フラメンコの基本リズムは、12拍を単位として三拍子二小節に二拍子三小節をあわせ、かつ強迫が後ろにくる特徴をもっている。
ところで、なぜ日本民族は言語的にも音楽的にも、固有の表現として三拍子をもたなかったのか。
原型において問題するかぎり、日本的なる<拍>も、かならず明確な二拍子あるいは四拍子を構成しているし、本質的にそれ以外ではない。――唯一、西欧的な三拍子に相当するものがないことにおいて独自なのである。
この問題を解く鍵は、<間=無音の拍>である。
この<無音の拍>に、等時拍を音数律へと構成するリズムの原理=本質がかけられている。
03、構成的なるもの
手締め=aの3.3.3.1の手拍子は、西洋流にかぞえれば四拍子四小節からなる16拍である。
a=○○○●/○○○●/○○○●/○●●●
よくいわれる三三七拍子=bもまた四拍子四小節の16拍構成である。
b=○○○●/○○○●/○○○○○○○●
手締めaにおける3.3.3.1の最後の一拍が意味しているのは、それがはたす終止の機能によってはじめて運動過程のインテグラル=積分が<構成>へと媒介され、リズム表出が成立する――この場合、<リズム>とはどんな単位概念でもなく、一篇の<作品>としてのリズムというトータルな概念=構成力をあらかじめ含んでいるのである。
04、仮構としての反覆
日本語のリズムが等時的拍音形式のうえに成立するものであることは定説であるが、
では等時拍のもつ<等時性>とはなにかと問いを遡行せねばならない。
等時的反覆とは、それじたいがすでに<人間>的意識からすれば高度に自覚された仮構性である。
わたしたちは人間の身体をも含めて自然的現象のうちに無数といってよいほど多様な等時的反覆を識別することができる。たとえば心臓の鼓動もその一種として表象されている――けれどもわたしが心臓の鼓動を意識するやいなや、その鼓動はけっして等時的には反覆しない。意識されたものとして脈動は、かならず速くなったり遅くなったり、強くなったり弱くなったり、あげくのはては結滞したりまた脈うちはじめたり――つねに変化していて、等時的反覆を自覚して保とうとするかぎり、逆に意識自体を消して心臓を自然的現象たるわたしの身体に還元する以外にないことがわかる。
ここからわたしたちは人類史のある原始的な段階を想像することができる――<人間>が最初に獲得した<心臓の意識>とでもよぶべきものは、それがかならず停止せずにはいないものだという自覚からなっており、したがって最初の仮構の契機は<反覆>というより持続=連続への欲求に発していたはずだ。つまり自然的反覆の等時性を自覚すればするほど、逆に<人間>はそれにシンクロナイズしえない存在だという意識の深化がもたらされる――この発生=本質は仮構としての等時的反覆からつねに失われることがないだろう。
あらゆる反覆が仮構されるためには、まず<構成>が獲得されねばならなかった――<人間>的意識の外化においては<構成としての時間>を本源的場面とする仮構がなされており、リズムとはこの仮構された時間の<構造>である、とひとまず定義しうるだろう。
手締めaにおいては反覆の停止が構成の原理であることを示しており、bでは反覆の重層=拡大が原理であることを示している。Xもまた原理的にはbと共通する側面を示しているといえよう。
05、間(ま)とはなにか
a、bとXとをリズムの表出として決定的に隔てているものは、ほかならぬ<間>である。
<リズム>という西欧的概念に相当する、日本的なる意識が<間>におかれてきたことはいうまでもない。
中世から近世にかけてあらゆる芸術的表現の尖端は、間を基軸として展開し、いっさいの表現は間のとりかたに集約されてきた。
<意識とは意識された存在以外のものでは決してありえない>とする<ドイツ・イデオロギー>の定式を、存在を外化とよみかえてあてはめるならば、間の意識はそれに対するもっとも根深いアンチテーゼをなすといえるだろう。間はついに外化されないがゆえにどこまでも個体の主観に委ねなければならない。
表現とは<型>を超えることであり、しかも<型>を超えるのは<間>であるというところに、<国=語>におけるリズム表現のアポリアがひそんでいる。


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