地図一枚捨てゝ心かろく去る

N-040828-011-1


<身体・表象> −11


<菅谷規矩雄の「詩的リズム
 ――音数律に関するノート」からのメモ−4>


「発生の原基」−承前


06、拍手−加速型リズム
たとえば政治集会などでの拍手は、発言に賛同するものの数だけ、まず自由なる主観として、いっせいに、且つてんでに発せられる。最初にここで表出されるのは、より空間的な同一性、共同的なる場面であるが<構成>としての時間は獲得されていない――それゆえなりやまぬ拍手はひたすら場面を持続させているのである。そのうちだれからともなく、手拍子は大きくゆるやかに波動のような拍をうちはじめる――全員がそろって、規則的に。そしてこの拍はしだいにテンポをはやめ、あたうかぎり加速されたあげく、ついにはまたバラバラの拍手となり‥‥ふたたび大きくゆるやかに拍をうちはじめ、規則的に加速され‥‥と、くりかえす。
拍と拍との間はすなわち共同的なる空間をとらえ、テンポを加速するにしたがってこの空間は圧縮・強化されて時間へと転移し、その時間の局限に見いだされるのは、ひとつの根源的な共同意志の成立である。
この加速的な拍手を、手拍子の表出形式の原型のひとつにかぞえることができる――(c)
この形式には、表出としての手拍子がふくむ自然さのごときものがみられる――いいかえれば等時的反覆よりは加速形式のほうが、いっそう原型的であることを示す、と。
07、拍と律――俳句のリズム構成
<拍−Takt=等時拍>と<リズム−音数律>の次元をできるかぎり明確に区別しておく必要がある。
わたしが詩の<リズム>というとき、それは<国=語>の発生−等時拍と、その現存(表現)−音数律との交点に描き出される言語の本質をさしている。
(例) ニワノ/サクラガ/ミンナ/チッテ/シマッタ/――この十七音の等時的拍音と、俳句の十七音とはいったいなにがちがうのか。
――(例)の文が、1−五つの文節からなること、2−どの文節も三ないし四音からなること。
ところで、リズムに重点をおくかぎり、この例文はある種のくどさを否定できないが、それは1の文節が五つあるためである。
ニワノ/サクラモ/ミンナ/チッタヨ/――あるいは
サクラモ/ミンナ/チッテ/シマッタ/――とでもすれば、そうしたくどさはのぞくことができる。
(例)の五文節十七音がうまくリズムをなさないのは、四文節十五音(拍にして16拍)が日本語におけるリズム構成の最大値であることに起因している。――そしてこの構成とさきにあげたa、bの手拍子の形式との一致は、偶然ではなくふかい必然であることはいうまでもない。
俳句の五七五−十七音は、そのリズムが<二部構成>とならざるをえない最少の音数律を示している。
――発句を連歌から独立した詩形として確立しようとした芭蕉は、おそらくこの<二部構成>を深く直観していたにちがいない。
リズムが<二部構成>だということは、十七音が三十二の拍を原理的な可能性として含んでいることにひとしく、したがって十五拍分もの無音の拍を<間>としてもちきれるか――という問いは不可避であった。初期の芭蕉の句はそうした事情を如実に物語っている。
芭蕉野分して−<1> 盥に雨を聞夜哉−<2>
櫓の声波ヲうつて−<1> 腸氷る夜やなみだ−<2>
これらを字余りとか破格とか、はたまた漢詩の影響とか、奇異とみなしているかぎり俳句はいつまでも<泰平の歌>にすぎないだろう。
08、等時性の成立
「ヒ!−火」と「キ!−木」から「ヒノキ−檜」へ
「ヒ!−火」や「キ!−木」それ自体は<拍=音=語=文>のように表出の全体性と不可分であったろう。その場合<場面>は心的にも時枝の考えるような<型>として表出に先行する時間性ではありえず、表出の瞬間(拍)に不可逆的に完了してしまうだろう。
それぞれが表出の全体性を内部で完結してしまう不連続の「ヒ!」と「キ!」を、たとえば「ヒ・キ(火の木)」という連続性へとおしあげていくには、いわば空間に点在しているようなひとつひとつの<音=語>を、あたうかぎり局限へむかって加速される<拍>の反覆にのせる――という経験のながい累積が必要であっただろう。そのはてでヒとキとは、もはや分離することなく結合した、ひとつのあらたな意識=観念として固定される――いいかえれば<ヒ・ノ・キ−(火の木=檜)>という等時拍形式が成立するのである。
ここにいたってようやく、一回ごとに不連続に完了してしまう表出の全体性から、つまり<語>としての言語から、言語の部分(条件)としての<語>へ、全体性の表出へと、自覚−対象化の転位がおこりえたと思うのである。
09、「唱える」「語る」「歌う」――折口説
折口信夫は文学の発生−起源を呪詞にもとめた――折口が起源に想像しているところをよみかえれば、言語の表出(発声)自体、とりわけ発声の等時的連続が、もっともつよく規範的威力をなしえた場面、表出の水準の尖端が同時に規範の上限をなすような、原初的な言語であるだろう。
祝詞宣命>などが、語るというよりもっと間の遅い、等速の拍をリズムとし、歌うよりはずっと節のおおまかな、わずかに高低アクセントを強調することで、節の変化をつけた<発声>の原型がかんがえられる。
一音語から二音語・三音語へと、概念の重層拡大は、拍の等速反復を土台とし指示性の分化を基軸として進んだであろう――それに対して、時枝のいう<ゼロ記号の陳述>こそが本質的に<辞>の発声を示唆しているごとく、言語の自己表出性は<間>に根ざしていてもっとも<語>としての分化をとげにくい、という進化のずれが存在する。
アキツミカミトアメノシタシロスヤマトノスメラガノル‥‥といったとなえかたには、等時拍定式のゆきついたはての様式化が象徴されている。
一語一語つまり一音一音、あたうかぎり等時拍的な正確さでたえまなく波うつように拍を持続させてゆく。なによりもその等時性が、もっともつよい規範=威力の基盤であったろう。その基盤−沈黙のはるか深みに<無言>がめざめていったであろう。
沈黙と無言――対位と循環はそこにものみこまれてある。沈黙から失語へ、さらに死語へ、そして饒舌へといたる循環がある。しかしまた沈黙から無言へ、無言から発語にいたる対位がある。
神の告ることばにたいして、土民は拍手をうたなかったか。パン‥‥パン‥‥と――ふたつの拍はひとつの無言をとびこえ、そしてすべての沈黙にいたる。
10、展開のプロセス
aの3・3・3・1‥‥の手拍子からいわば等時拍リズムと呼びうるものの原型を考えることができる。
bの三三七拍子は、<国=語>における最初の音数律リズムの成立を暗示しているだろう。
そしてcの加速的拍子とでもよぶへきものが示しているのは、それら双方に共通する祖型のごときものである。
これらをもとに、加速→等速→変速→重層‥‥という基本的な展開のプロセスを描いてみることができるのである。
aの形式を現存する<国=語>からとりだすことはほとんど不可能である。それは前=言語的なるままに<土俗−儀式>の領域を恒常的に循環している<黙契>の、最低限の外化形式となってわたしたちの社会の内部に棲みついている。――「それではみなさん、お手を拝借」というしだいである。


付記
本書の第三章「発生の原基」の後半要約部分は、
菅谷の「詩的リズム」論におけるもっとも核心をなしている箇所と、
私などには見受けられる。
とりわけ、07における、
日本語におけるリズム構成の最大値が四文節十五音(拍にして16拍)、
となる必然を導き出し、
発句=俳句の、五七五の十七音が、
リズム構成の最大値たる十五音(拍にして16拍)を越え出ているがゆえに、
<二部構成>への可能性を孕まざるをえない最少の音数律を示していること。
此処に至って、われわれの<国=語>が短詩型文学の最たるものとして
五七五、十七音の俳句へと結晶する構造的な必然が、
みごとに解き明かされているのではないか。


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