うしろから月のかげする水をわたる

<古今東西−書畫往還>

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<歴史に隠れた地下茎−「阿片王−満州の夜と霧」


 ノンフィクション、資料とそれに基づく取材や調査、さらには推理を絡ませながら歴史の裏面によく肉薄した力作といえる。
 満州の夜と霧とでもいうべき深い闇に溶け込んで容易に姿を見せない甘粕正彦と、里見甫という二人の男。
甘粕は大正12(1923)年9月の関東大震災直後、無政府主義者大杉栄とその家族を扼殺したとして検挙され、仮出獄後、満州に渡って数々の謀略に加わった。最後は満州映画協会(満映)の理事長におさまって、関東軍をもしのぐ実力をふるい、満州の夜の帝王と怖れられた。
一方、里見は中国各地のメディア統合を図って、満州国通信社(国通)のトップに君臨した後、魔都上海を根城にアヘン密売に関わり阿片王の名をほしいままにした。
この二人は阿片という満州最深部の地下茎でつながりあっていた、というのが着想の主軸。
 著者に言わせれば、日本は、敗戦後十数年足らずで高度経済成長の足がかりをつかんだ。それは我が国がいち早くアメリカの傘のなかに入って戦後世界に君臨した察国家にその安全保障を任せっぱなしにし、経済分野に一意専心することができたからに他ならないが、昭和25年(1950)年に勃発した朝鮮戦争による特需景気はその先駆けをなすものだった。だが、そうした側面もさることながら、日本の高度経済成長のグランドデザインは、かつての人造国家−満州国を下敷きにしてなされたような気がする。昭和35(1960)年の安保改定をなした時の総理岸信介は、戦前、産業部次長として満州に赴任し、満州開発五ヶ年計画を立て、満州国の経済政策の背骨をつくって、後に「満州国は私の作品」と述べたのはあまりに有名である。世界史的にも類をみない戦後の高度経済成長は、失われた満州を日本国内に取り戻す壮大な実験だったのではないか。高度成長の象徴である夢の超特急−新幹線も合理的な集合住宅もアジア初の水洗式便所も、すべて満州で実験ずみだった、というわけだ。


 里見甫が旧満州の土地をはじめて踏んだのは、いまから七十数年前のこと。たいした要職についたわけでもなく、政治の表舞台で活躍したわけでもない。あくまでも一人の民間人として中国大陸で生きていたにすぎない。にもかかわらず、阿片という嘗て中国の闇世界を支配しつづけたモノを媒介することで、彼は裏から歴史を動かし、日本の進路を変える働きもなした。
歴史の濁流に呑み込まれた男の足跡をたどるのは困難をきわめたことだろう。きっかけとなったのは一枚の人名リスト。昭和四十年三月、里見甫が新宿の自宅で急逝するが、その二ヵ月後、関係者が里見甫の幼い遺児のために、奨学基金の寄付を呼びかけた。百七十六名にのぼる発起人が網羅されていたが、そのなかに、岸信介児玉誉士夫笹川良一佐藤栄作など、政財界の要人や裏世界に暗躍した者たちが名を連ねていた。この人名リストを手がかりに、著者は気が遠くなるような、過去への調査の旅に出かけたのである。驚異的な粘り強い取材によって、驚くべきことが次々と明るみに出て、半世紀以上も前に起きた歴史上の出来事の裏面が浮かび上がってきた。 
詳細な資料調査や関係者のインタビューを通して見えてきたのは、 関東軍がアヘンの取引と深くかかわっていた実態である。軍部が戦線不拡大の意見を押しのけ、日中戦争に踏み切らせた心理的な要因の一つに、中国の軍閥たちが独占するアヘンの利権を武力で収奪することがあったという事実。
著者曰く、日中戦争は二十世紀の「アヘン戦争」でもあった、というわけだ。
 歴史はたんに蒼白な「過去」としてではなく、つねに現在と関連させながら明らかにされていかねばならないとする著者のスタンスは、徹底した調査と取材姿勢でよく裏打ちされている。


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