ぶらさがつている烏瓜は二つ

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<古今東西−書畫往還> 


<愛は生物学的な事実−
     D.モリス「ふれあい−愛のコミュニケーション」


 昔、動物行動学者デズモンド・モリスの「裸のサル」を読んだのはいつのことだったか。おそらく30年くらいは遡るのだろう。このほど些か気まぐれを起こして同じ著者の「ふれあい−愛のコミュニケーション」と「ボディウォッチング」を気楽に走り読みしてみたのだが、結構たのしく気晴らしにはなった。
白川静氏の常用字解によれば、誕生の「誕」という字の本来の意味は「あざむく、いつわる」だそうである。されば、母親の胎内に守られ、至福とよぶに相応しい子宮内から生れ出ることは、赤ん坊にとってはもっとも苛酷な受苦であり、外傷的体験であることに符合するかのごとく、生物としての出産・誕生とは、胎児の側にとってみれば「あざむかれ、いつわられる」ことに他ならないということになろうか。


 「愛は生物学的な事実」とする著者は、動物行動学者としてのアプローチから、親密であるということ、ヒトとしての母と子のあいだや大人としての男と女のあいだに交わされるさまざまなふれあいのうちに、それぞれのシグナルを読み解き、何が起こっているのか、いわゆるボディタッチの本質を解き明かしてくれる。
章立ては、1-「親密性の根底にあるもの」、2-「性的親密性への誘い」、3-「性的親密性」、4-「特殊な親密性」、5-「親密性の代替物」、6-「物への親密性」、7-「自己親密性」、8-「親密性への回帰」と8章に構成されるが、その2章において著者は、「人間の自然な寿命はおそらく40歳から50歳の間であって、それ以上ではない」という。霊長類としての人間の体重やその他ライフサイクルにおけるさまざまな特徴から、動物行動学者としての著者はそう断じている訳だが、ならばわれわれ人間社会は、現代医学の奇蹟によって、その寿命を生物学的にはきわめて不自然なまでに伸ばしてしまっていることになる。40代で自然な死を迎えられるのなら、自分の子を育てそして消え去っていくのにまさしく手頃な時間なのだが、高度な現代文明にどっぷりと浸ってしまっているわれわれの社会ではすでにそこからずいぶんと遠ざかってしまっているうことになる。親の責務を卒業した男女−夫婦がさらに半世紀近くもの時間を生き延びなければならない現代の姿は、まことに深刻な問題を孕んでいる、という訳だ。


 3章において著者は「複雑化したヒトの性行為の起源は何か」を問う。男と女における恋愛期間のやさしい躊躇いがちなタッチや握手をはじめ、もろもろの前戯の情熱的かつ刺激的行為は、どこに由来しているのかということに対し、それらの行為はほとんんどすべて、母と子の関係における親密性に跡づけることができるというのが、その答えである。ヒトとしてのわれわれの「愛し合うことは幼児期への回帰にきわめて類似している」ということ。「ヒト科の動物にとっての結合は、成熟した霊長類の交合行為プラス幼児期に立ち返った抱擁行為で成り立っている」というその二重性にあること。そしてむしろその後者=幼児期への回帰が、「初めの求愛の段階から最後の瞬間にいたる性のすべてのプロセスに深く浸透している」のだと導いている。


 とかく現代における人間関係が互いに疎外的であればあるほど、肉体的な結びつきの必要をよけいに感じるのも自然な成り行きではあろう。また、ヒトとして同じ人格のなかに冷酷無比の残忍性と愛情深い感情が並列的に存在していることも厳然たる事実ならば、というのも残忍性の起源は誕生時の苛酷な外傷体験であり、そして愛情の深さは母親の胎内におけるあの親和力がその起源なのだが、われわれはその残忍性と愛情深さという矛盾しあう二相を自身の内部に折り合いをつけ共存させなければならないことになる。そうしながらわれわれは常に人間の本性を再確認していかねば、絶えず自身の破滅、破壊的行為に突き進む危機にさらされつづけることになるだろう。
 「人間は肉体を所有しているのではない。肉体そのものなのだ。」と終章を結ぶ著者は、「人間関係の結びつきで、とかく性的な要素が過大に評価されがちなのが現代の通弊である。ボディ・コンタクトと親密性への希求が現代社会の内部にどんなに激しい炎となって燃えさかっているか。」と警鐘を鳴らす。ここでわれわれが再確認すべきは、親と子のあいだの親密性に性的な意味がまったく含まれていないように、或は母性愛−父性愛や、子の親に対する愛情が性的な愛とは異質なものであるように、さまざまな人間関係、男性同士であれ、女性同士であれ、ときに男と女であれ、そのいずれの関係も、とくに性−セックスと結びつける必要はなく、親しさや愛情はあくまでそれそのものであり、お互いを分かちがたく結びつける精神的な絆であること。そこに性への衝動が含まれているかどうかは、あくまでも二次的な問題にすぎないのだということ、を徹底して自覚することだ。


 つけくわえれば、コトバもまたボディ・コンタクトの延長であり、象徴性豊かなふれあいなのだ、ということを忘れてはなるまい。ましてや肉声による会話、声の交し合いはお互いの想像力を駆使したボディ・コンタクトそのものであり、親密さにあふれた空間であることをしかと銘すべきだろう。


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