落ちかかる月を観てゐるに一人

<身体・表象> −13

N-040828-013-1


<方向性と超越 −1>


 上−下、右−左、前−後という空間的・方向的な対概念から成る超越の座標について。
この座標系は、デカルトニュートン的な均質空間のそれではなく、
あるパースペクティヴに基づいて、方向性をもった非均質的な空間を構成する質的座標系である。
その原点にあるのは、身体性をもった私という存在−身体であり、心であり、私である<身>そのものである。


[上−下への超越]
 上−下は、他の方向性に比べても特に非対称性、非可逆性が強いのが特徴だが、この非対称性が、象徴的にも大きな意味をもつことになる。
その理由として第一に、右−左や前−後は、身体の向きを変えれば容易に逆転されるが、上−下の逆転はそう容易なことではないこと。
第二に、上−下は重力の方向という強い方向性をもち、通常はこれを逆転できない。高い塔や高層建築の魅力は重力に抗う印象ゆえにともいえるだろう。また噴水の不思議な魅力も、自然の重力に抵抗する非日常性にあるだろう。
第三に、ヒトは直立歩行によって、頭化の方向=上と、行動の方向=前が分裂したことである。したがって前は実用的、行動的価値の方向であるが、上は非実用的なものとなり、精神的価値のみが強調される方向となる。
一般的にはこのように、上−空間は精神的にプラスの価値を帯び、下−空間はマイナスの価値を帯びる。<上>は神秘的なものの支配する空間、ミュトスの空間となり、神々や上帝、高天原、天国に比せられ聖化される。それにたいして<下>は地獄、黄泉の国、根の国に比せられ穢れた空間、マイナス価値の空間とされる。
しかし、仏教においては些か異なる。浄土は十方億土にあるとされる十方とは、上下二方のほか、東西南北とその中間の八方をいう。
また、農耕民族の地母神信仰や大地信仰のように、<下>である大地は産みの根源としてのプラス価値となるが、この場合、天は父なるものに、大地は母なるものに比せられる。概ね、多神教世界では<上−下>ともにプラス価値であり、天なる神=太陽神と地なる神=地母神のダイナミックな価値体系のなかで、地母神は生殖と死の象徴として両義的聖性を帯びることとなる。
ふつう、神への信仰は<上>への超越と考えられる。キリスト教的な信仰はそうだ。


 キルケゴールの実存哲学において「本来の自己すなわち実存は、神への超越、決断による飛躍を通じてのみ得られる」というのは<上>への超越がめざされている。
これにたいして、人間的生命の根底に向かって自己自身を取り戻そうとする、生の哲学は<下>への超越といえようか。。自己の根柢へ向かうとは、現象的自己を超え出て、自己が根づいている根拠へ遡ることであり、そのかぎり<下>への超越となろう。
<下>への超越を、より自覚的に徹底したのは、西田幾多郎である。
「我々の自己の底には何処までも自己を超えたものがある。しかもそれは単に自己に他なるものではない。そこに我々の自己の自己矛盾がある。此に我々は自己の在処に迷う。しかも我々の自己が何処までも矛盾的自己同一的に、真の自己自身を見出すところに、宗教的信仰というものが成立するのである。」(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」)という。この自己の底にある自己を超えたものは、いわゆる神のような超越者的な存在ではない。また単に自己に他なるものではなく、自己の内に潜む多数の或は無数の他者、いわばユングのいう人類に共通な普遍的無意識或は集合的無意識に通呈する世界といいうるのではないか。
キルケゴールにおいて、本来的な自己、真の自己は<上>への超越においてあらわれる自己であり、西田においては、自己を自己の底に超える<下>への超越において、真の自己はあらわれる。かように、自己を超え出ることによって、真の自己があらわれるという構造は同じだが、超越の方向は逆であり、対照的であるのは、たんに拠り所たるキリスト教と禅という発想の違いに還元しきれるのかどうか。


    参照−市川浩・著「身体論集成」岩波現代文庫


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