人ぞ憂きかきなす琴の調べだに‥‥

041219-055-1

−今日の独言−

事件は、偶然のように‥‥
 身体表現における即興の場などというものは、その人自身の既存の呪縛から解き放たれるためには、いったいなにがヒントになったりキッカケを生みだすか、まったく予測のつけがたいものだ。
昨日は稽古場で、数日前に記事として挙げた、「フロイト=ラカン」の<人の欲望は他者の欲望である>ということをキィワードに少し話をしてみた。このテーゼは、いいかえれば自分の「無意識」とは厳密には「他者の欲望の場」であり、「無意識は他者たちの語らいの場である」ともなる。
この論理に則れば、自分自身の固有の身体もまた、他者の身体によって生きられている、というアナロジィを想定しうる。身体とのみいって解りにくければ、身体形式あるいは身体の動きとしてもよい。そういった視点から想像力を羽ばたかせてみるならばどうなるだろうか。かいつまんでいえばそんな話。
これまでどうにも固有の壁を破れなかった一人が、劃然とその殻を破った動き方=表現をはじめたのである。従来とはまったく別人のごとく奔放な表現がどんどん繰り出されてくる。これはひとつの事件である。
念の為言い置くがこれは初心者レベルのことではない。初心者の呪縛を解放してやることはさして難しいことではない。十年選手のようにすでにまがりなりにも表現者として自分固有のスタイルを有してしまっている者において「劃然と悟る」へと到らしめるには、という難題であって、実際、私は彼女に対して、もうかれこれ丸一年以上、そのことを課題にしてきたのだった。
おそらく昨日のその事件は、彼女にとっては靄々と溜めに溜め込んできた得体の知れないものの偶然見出された突破口なのだろうし、その意味では内的必然だったのだろうが、現れとしてはまったく偶然のようにしか起こり得ない。これでやっとひと山超えてゆくことができるだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−9>
 人ぞ憂きかきなす琴の調べだに松の風には通ふならひを   惟宗光吉

惟宗光吉集、寄琴戀。鎌倉後期〜室町初期の人。惟宗氏は代々医家として名高い。和漢の才を謳われた。
「人ぞ憂き」の初句切れに、本来なら言外に感じさせるべきような主観的表白を、冒頭にはっきりと提示する趣向が、耳目を集める効果となろうか。


 わが前に住みけむ人のさびしさを身に聞き添ふる軒の松風   夢窓疎石

正覚国師御詠。鎌倉後期〜室町初期の臨済僧。天竜寺ほか諸国に多くの寺を開き、作庭にも優れた。
鎌倉山の旅中、人の住み棄てた侘しい草庵に一夜宿した折に詠んだとされる清韻の調べ。下句「身に聞き添ふる軒の松風」に観照の深さと語の工夫が感じられる。


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