空のふかさは落葉しづんでゐる水

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Information<四方館Dance Cafe>


<行き交う人々−ひと曼荼羅>

大阪市会議員奥野正美とのこと(承前)

 ともかくも翌年(‘87:S62)の4月、出足の遅れた候補者であったにも拘わらず、本番の選挙戦に突入した後半の追い込みであれよあれよという間に知名度を上げ、初挑戦で当選してしまったのだ。得票は9000票を越えて、港区内の議席三名の2位当選。時に38歳、若きパフォーマーの見事な勝利であった。選挙戦のなかで、実は私も選対本部から依頼を受け、あるイベントの演出をしている。さらには街頭宣伝のウグイス嬢に劇団の女性を送り込むという協力もした。しかし、全電通の組織内候補であり、選挙の実態はといえばどこまでも組合の動員による組織型の選挙であった。表層は候補者の新鮮な魅力でブームを呼び、裏へ廻れば全電通の出身支部が動員力にものをいわせてガッチリと支えていたのである。

 そしてさらに一年を経て、88(S63)年の5月、私は市会議員となった彼の事務所である港市民相談センターに身を置くようになる。高校を出て大学へも進んだものの、演劇や舞踊などという、古めかしい謂いなら河原者と蔑まれ身すぎ世すぎもままならぬ道を歩き、我が身を世間からずらしつづけてきたばかりの四半世紀を、あらためてというより正確には初めて世間という坩堝のなかへ投じたのであった。当時の私にとってみれば、そのような180度の転身をするに充分な理由なり背景はあったのである。以来、2000(H12)年8月に身を退くまでの丸12年を、私は港市民相談センター事務局長という形で、日々来訪する相談者への応対や、議員の後援会づくりや、或は情宣のための会報づくりなど、煩瑣なほどのさまざまな人々と雑務のなかにどっぷりと浸りつづけ、4年に一度必ずめぐってくる選挙戦を三度まで陣営を率いる立場で経験する仕儀となったのである。だが永年の馴染みとはいえ、議員となった彼と私の二人三脚に、この12年はあまりに長すぎたように思われる。私自身にとっては初めての、彼にとっては二期目の選挙を勝ち抜くまでの三年間がもっとも充実した期間であり、その間に私の立場から可能なかぎりの手立てというかプレゼンスは出尽くしたといっていい。いわば設計図と実践の見取り図はほぼ出来上がり、あとはこれを踏襲していくことのみが課題となって日々が費やされてゆく。彼が市会議員にとどまるかぎり、日々を支える私にはだんだんと退屈で鮮度のない味気ないものになってゆく。ゆっくりとだが私は自分の身の退き時を本気で考えるようになる。こうして長い年月を経た紆余曲折の出逢いと別れの一幕に終止符を打つべき時が準備されてゆく。


 この稿をひとまず閉じるに際し、もう15年も遡る古いものだが、
1990(H2)年1月、後援会向けカレンダーに12の句を配し「おくの正美12月」として掲載したものを書き留めておく。
いわゆるイメージ戦略としての市会議員奥野正美像づくりのため作したものである。


 1月 四方の空澄みわたりたれ’90大阪
     −21世紀へつらなる’90年代の幕開け、清新の気を漲らせて大阪の未来へ

 2月 氷る夜やみなとみらいに熱き心
     −支援者との心を結ぶ会報「みなとみらい」を今年も必ずお届けします

 3月 重き税民の痛みに春告げむ
     −確定申告の月です、消費税の痛みが重なって庶民は泣いています

 4月 花を愛で花に集いて平らか成らむ
     −花博がいよいよ開催されます、平和のシンボルイベントになるように

 5月 五月晴れ港めぐりてひろがる出会い
     −広報船「水都」を利用した港めぐりが地道に出会いをひろげていきます

 6月 夕映えの弁天新しき活気満つ
     −弁天駅前に登場するナウい遊空間、港のターミナルが大きく変貌する

 7月 満天の星の輝きのごと我が仲間
     −いろんな輝きを持ったたくさんの仲間、支援のみなさんが仲間です

 8月 海に遊び魚に学ぶ生命かな
     −天保山に誕生する大規模な水族館は「海遊館」と名づけられました

 9月 天を突けサンセットパーティに響く歌声
     −4回目を迎えるサンセット、後援会最大のイベントに育てましょう

 10月 きりぎりす身は三歳の市政のおさな児
     −機織女の機打つ音のように一心に鳴きつづける虫に我が身を映して

 11月 行く秋やふれあう温みの旅の友
     −露天風呂にひたりながら行く秋を惜しむ、和気藹々の旅行会です

 12月 木枯らしの街を走って呼ばむや春を
     −来春は統一地方選挙、二期目クリアーへ懸命に港の街を走りつづけます


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