逢坂の関の嵐の烈しきに‥‥

C051024-162-1

−今日の独言−
かはたれどき

 黄昏時−たそがれどき−とは、「誰ぞ彼れ時」から生れ、夕刻、薄暗くなってきて、あそこに居る彼は誰ぞと問いかける頃、という意味だというのは概ねご承知かと思われるが、これと対語のように「かはたれどき」というのもあったとは寡聞にして知らなかった。「彼は誰れ時」と書き、意味は同様だが、「たそがれ」が夕刻に限り用いられ、こちらは逆に、まだ薄暗き明け方に用いられた言葉。広辞苑には「かわたれ」の見出しで載っているが、明鏡国語辞典には無く、すでに死語扱いと化している。
そういえば、ある辞書では、昨年の新版が出た際、新語が1500加わり、逆に114語が辞書から消えていた、と具に調べたご奇特な御仁が小エッセイに書いていた。
不易流行とはいうが、コトバというもの、まことに不易と流行のはざまにあって、ダィナミックに生成消滅してゆくものだし、いつの時代でもコトバは乱れている、乱れざるをえないのが実相で、それがコトバの本質なのだろう。佳きコトバの賞玩はどこまでもおのれ自身の内なる問題として、消えゆくコトバにしたり顔に慨歎してみせるようなことは避けるのが賢明なのだと自戒してみる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−3>
 逢坂の関の嵐の烈しきにしひてぞゐたる世を過ぎむとて  蝉丸

古今集、雑、題知らず。生没年・伝ともに不詳。今昔物語に、宇多天皇第八皇子敦美親王に仕えた雑色というが、確かな根拠はない。平安朝後撰集時代の隠者で、盲目の琵琶の名手という伝。
邦雄曰く、百人一首「知るも知らぬも逢坂の関」の詞書「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに」を背景に、この伝説中の人物をさまざまに推量すれば、ゆかしくかつあはれは深い。第四句まで一気に歌い下して口をつぐみ、おもむろに結句を置いた感。また、第三句の「に」に込めた苦みも独得の味、と。


 むら時雨晴れつるあとの山風に露よりもろき峯のもみぢ葉  二条為冬

新千載集、冬。詞書に、元亨3年、亀山殿にて、雨後落葉といふことを。乾元3年(1303)?−建武2年(1335)。鎌倉末期の歌人。俊成・定家の御子左家系譜の権大納言二条為世の末子。南朝尊良親王を奉じ、尊氏追討の戦にて討死。
邦雄曰く、冬紅葉の、霜と時雨にさらされて、触れればそのまま消え失せるような儚さを、第四句「露よりもろき」で言いおおせた。やや微視的なこの強勢と、一首の大景とのアンバランスも面白い、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。