寝覚めしてたれか聞くらむ‥‥

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−今日の独言− TVの事件報道

 テレビにおける事件報道の過剰は、類似犯行の連鎖を助長しているように思えて仕方がないのは私だけではないだろう。広島の小1女児殺害の犯人が逮捕され、動機など事件解明の報道がされるなか、またしても栃木で小1女児が下校時に連れ去られ殺されるという悲惨きわまる類似の事件が起こったが、これはどう考えても先行した広島の事件報道が導火線の役割をしたという側面を見逃しえないのではないか。
 事件に取材した報道が朝・昼・夜とまるで金太郎飴のごとく洪水のように繰り返し流されるのは、到底、犯罪の抑止力になるとは思えない。それどころか意識下にマグマのように滾っている鬱屈した心性にいかにも偶然的にせよ出口を与え、類似の犯行へと現実に至らしめるという結果を招いているのではないかという惧れを抱かざるをえないのだ。誰しも斉しくとはいわないが、自らの想念の内に犯罪者としての自身の似姿を描いたりする場合はままあるものだろう、と私は思う。だが現実にはその殆どの犯罪的心理は自己の内部に抑圧され、具体的な事件となって顕在化することはないし、そこにはなかなかに越えがたい閾値が存在しているものだが、こうもマンネリ化した事件報道の洪水はその越えがたい閾値を、結果として低くしてしまい、ある特定の者にとっては本来ならば充分抑圧しえていた犯行への衝動が抑止できず現実の行動へと短絡させてしまうことは起こりうるのではないか。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−4>
 散り散らず木の葉夢とふ槙の屋に時雨をかたる軒の玉水  木下長嘯子

挙白集、冬、時雨。永禄12年(1569)−慶安2年(1649)。安土桃山から江戸初期。秀吉夫人北政所の甥、小早川秀秋の兄。歌は細川幽斎に学び、同門に松永貞徳など。
邦雄曰く、凡そ秀句表現の綴れ織りのような歌であるが、冬歌の侘しい風景は俄かに輝きを帯びて珍しい趣を呈する。「木の葉夢訪ふ」といい「時雨をかたる」といい、選びに選んだ詞華の鋭い香りと光を伝える、と。


 寝覚めしてたれか聞くらむこの頃の木の葉にかかる夜半の時雨を  馬内侍

千載集、冬、題知らず。生没年未詳、平安中期の女流歌人斎宮女御徽子や一条院中宮定子に仕え、伊尹、道隆、通兼など権門の貴公子らとの恋多き才女。歌意は「ふと寝覚めれば、微かに耳に入るのは、庭に散り乱れたの落葉に降りかかる冷え冷えとした時雨の音、冬のこの夜半に、どこかで誰か、同じように耳を澄ましているだろうか。」
邦雄曰く、微かに歌の底に、待恋のあはれが漂っている。倒置法ゆえに、下句はあやうく揺れ味わいを深める、と。


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