黒髪もさやけかりきや‥‥

051127-007-1
Information−Aliti Buyoh Festival 2006−

−今日の独言− K女を偲んでのオフ会

 昨夏、忽然と不帰の人となったK女を偲びつつ、墓参を兼ねたオフ会にエコ友のtosikiさんにお誘いいただき、一昨日の21日、京都へと足を運んだ。宗祖親鸞墓所でもある五条坂大谷本廟へ参るのは初めて。総門を入ると正面に大きな仏殿、その右手の読経所との間を通り抜けると、東山を背にして明著堂と呼ばれる納骨所がある。さらに右側には、第一無量寿堂、第二無量寿堂と呼ばれるモダンな舎利殿を髣髴させる個別用の納骨所が、縦に長く並んで総門のあたりまで延びているというなかなかの偉容。K女と彼女の後を追った寄る辺なき子息の遺骨は明著堂に納められたと聞いた。堂前にて数呼吸の間手を合せ冥福を祈る。
 京都らしく冷え込んできた夕刻の鴨川べりを歩いて、四条木屋町の今夜の食事処へ。初めは4人だったが三々五々寄り集って9人と膨らんだオフ会はいつのまにか賑やかな酒宴の場と化していた。五条通りに面した宿に無事帰参した時は、内3名が完全にダウンし爆睡状態。勧められるままに盃を重ねて私もいささか酩酊していたが、しばらくは酔いを醒ましつつ歓談したうえで、明朝稽古のある身とて、お名残惜しいが宿泊される皆さんとお別れして帰路に着いた。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−11>
 黒髪もさやけかりきや綰く櫛の火影に見えし夜半の乙女子  正徹

草根集、雑、冬櫛。永徳元年(1381)−長禄3年(1459)、備中国小田郡小田庄、神戸山城主小松康清の子と伝えられる。若い頃は冷泉家の歌学に影響を受け、後藤原定家の風骨を学び、夢幻的・象徴的とも評される独自の歌境を切り拓く。一条兼良の信任厚く、京洛歌壇の一時期を築いた。弟子に正広、心敬、細川勝元など。歌論「正徹物語」、紀行文に「なぐさめ草」。綰く(タク)−髪などをかき上げる、束ねる。
邦雄曰く、まさ眼に見たのは影絵めいた姿か、仄かな燈影のさだかならぬ面影であったろう。第二句「さやけかりきや」が、見えなかった髪の、黒さ豊かさ清けさを、より強調することとなる。技巧派の、趣向を凝らした修辞は抜群であり、四季歌の中に入れておくには、眺めが妖艶に過ぎよう。いずれにせよ珍重に値する絵画的な異色の作、と。


 夜とともに玉散る床の菅枕見せばや人に夜半のけしきを  源俊頼

金葉集、恋、国実卿家の歌合に夜半の恋の心を詠める。天喜3年(1055)−大治4年(1129)。源経信の三男。従四位上木工頭。堀河百首の中心となり、金葉集を選進。清鮮自由な詠み口を以て新風を興し、旧派の藤原基俊と対立。歌論書に俊頼髄脳、家集に散木奇歌集。金葉集に約210首。
邦雄曰く、涙の玉は散り、かつ魂散り失せて死ぬばかりの歎きに、菅の枕もあはれを盡し、つれない人に見せばやとの激しい調べも、また嘆きの強さを増す、と。


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