山里はやもめ烏の鳴く声に‥‥

051129-195-1
Information−Aliti Buyoh Festival 2006−

−今日の独言− ある印象批評

 Netの友、ある若い女性の書いた小説の原稿が送られてきた。作品は100枚ほどの短編。
批評というにはほど遠く、まあ読後の感想めいたものを書いてお返しとした。以下はその要旨。

 ずいぶん昔、中村真一郎だったか、小説作法についての本を読んだことがあるのを思い出した。
所謂、小説の構想の仕方、シノプシスをどう作るかなどを本人の実践に基づいて書いてあったと記憶する。
 掌編といったほうが相応しいような「T」と題されたこの短編にも、小説の骨格、シノプシスが明瞭にある、否、読後の第一感としてはむしろ構成の骨組みそのもの、プロットの組み立てばかりが印象に残る。
 読む前は作者個有の文体とはどういうものなのかな、とあてどもない予想をなにがしか抱きながら向かったのだが、冒頭20行ほどでそのアプローチはこの場合不適切なようだと思わされた。この作品は人物の設定や、プロットの展開などがどれほど破綻なく紡がれているか、その面から読み解いていかなければならないのだと気づかされたのだ。
 もうひとつの読後感としては、なにか一篇の劇画を読んだ感覚に近いということ。
なぜその印象が残るのかと考えれば、各プロット、各シーンにおけるディテールは、どれもそれぞれ、たしかにありそうなことではあるが、かといってリアリティはそれほど感じられない。ディテールとその現実感のあいだには、なにか皮膜のようなものが介在して、ある種もどかしいような痛痒感がつきまとうという感じ。とくにYという女の子にまつわる昔の事件などエピソードの挿入が何箇所もあるけれど、これらの存在は作者のご都合主義というより他になく、必然性からはかなり遠い。

 要素A− いつも変名を使ってゆきずりの男とセックスを重ねるヒロインY、その情事やいくつかの事件ともいうべき危うい出来事。
 要素B− オカマのTクンとヒロインYとの奇妙な友情関係。
 要素C− 潔癖な理想家肌のサラリーマン詩人とヒロインYの出逢いと別れ。

A.B.Cの三つの要素が入り組み絡まりあってプロットを緻密に形成しているのは咎められるべきことではないが、短いなかで一篇の小説としての完結性を求めすぎたのではないかと思われる。
100枚程度の短編なら、要素を絞り込んで、それ自体を濃密に膨らませることを課題にしたほうが、よほど可能性のある仕事になるのではないか。その分、書くことの呻吟、産みの苦闘は数倍増すだろうけれど‥‥。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−26>
 狩りごろも雪はうち散る夕暮の鳥立ちの原を思ひすてめや  肖柏

春夢集、上、詠百首和歌、冬十五首。
嘉吉3年(1443)−大永7年(1527)。村上源氏源通親の末裔、若くして建仁寺に入り出家。宗祇より古今伝授を受ける。
鳥立ちの原−トダちのハラ、狩場に鳥の集るように設えた沼や沢の草地。
邦雄曰く、冬の鷹狩は折から雪の降ってくる頃。狩装束に粉雪の吹き散るさまを、上句で絵画風に描き、忘れがたい眺めとして、下句では情を盡した、と。


 山里はやもめ烏の鳴く声に霜夜の月の影を知るかな  心敬

十体和歌、写古体、山家冬月。
応永13年(1406)−文明7年(1475)。紀伊の国に生まれ、3歳にして上洛し、出家。権大僧都に至る。和歌を正徹に学び、門弟に宗祇・兼戴らを輩出。将軍足利義教の時代、和歌・連歌界に活躍。家集に「十体和歌」、歌論に「ささめごと」。
近世和歌の俳諧味といおうか、題材に「やもめ烏」とは、俗に通じた、一歩過てば滑稽に堕する危うい趣向は、そのかみ山家集に散見する面白さ、新しさであった。下句はさすがに至極尋常、それゆえに夜烏にも凄みが加わり、一首は立ち直っている、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。