難波潟まだうら若き葦の葉を‥‥

051129-147-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun〜2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー


−今日の独言− 承前「市岡OB美術展」−梶野さんあれこれ

昨日はいつもの稽古のあと、夕刻近くになってから現代画廊へ行って、一日遅れの出品設営をした。会場には梶野さんはじめ、世話役の板井君(19期)他、馴染みの数名のOB諸君が居た。
そういえば過日、復活成った新創美展が京都市立美術館で開かれると案内を貰っていたのに、とうとう行けずじまいだったが、梶野さんの談によれば、会員も多勢集まりかなりの盛況だったらしい。
美術教師だった梶野さんは、昭和32年(1957)から58年(1983)まで市岡に在職していたというから、10期生から34期生あたりまでが、市岡の同じ空気のうちに同衾?していたことになる。
梶野さんの初担任が私のクラスで、しかもこちらは新入生だったから、私の市岡時代は彼流の放任主義が良くも悪くも大きく影を落とすことになる。ご念のいったことで2年まで梶野担任となったから、お蔭でずいぶん自由に振る舞わせていただいたし、懐かしい思い出はこの二年間に濃密に凝縮している。
梶野さんの父君が京都大学の著名な美学教授だったことを知ったのは、神澤さんに連れられて京都の下町にひつそりと佇むその父君宅へお邪魔したときだった。同じく京大教授だった井島勉の「美学」という小冊子を読みかじっていた頃だったろうか。遅まきながら近頃になって、梶野家が中世期より京の都で代々つづいた絵師だったか芸能の職能家系だったことを私に教えてくれたのは、博覧強記の谷田君(17期)だ。
私の手許にいまも残る、昭和37年(1967)2月の、神沢和夫第1回創作舞踊リサイタルの公演パンフは、梶野さんのデザインだ。彼曰く「あれは名作だ」と今でも自賛する自信作だが、たしかに当時の観念的抽象世界だった神沢作品によく沿いえた、と私にも思えるレイアウトだ。
神澤さんと梶野さん、市岡教員時代の先輩後輩だった二人のあいだには、当時、兄弟にも似た奇妙な友情が交錯し、惹き合うがゆえにまた反撥もし合う、そんな出来事がいろいろあっただろうし、二人のあいだの糸は、神沢さんと私のあいだに結ばれた糸とも縒れ合って、縺れた糸のつくるその模様は迷宮化つつもいつまでも風化することのない心象風景だ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−10>
 難波潟まだうら若き葦の葉をいつかは舟の分けわびなし  藤原良経

秋篠月清集、十題百首、草部十首。
難波潟−摂津の国の歌枕、淀川河口をさす。
邦雄曰く、今はまだ幼い白緑の葦、初夏ともなれば茂りに茂り、人の丈を越え、淀川の舟も視界を遮られて、分け入り分け出るのに難渋するだろう、と未来の光景を幻に視る。「いつかは」には、春の三ヶ月、その歳月の彼方を思う溜息が籠る、と。


 君がため山田の沢に恵具採むと雪消の水に裳の裾濡れぬ  作者不詳

万葉集、巻十、春の雑歌、雪を詠む。
恵具採(えぐつ)む−恵具はクワイのことでクログワイとされる。 雪消(ゆきげ)の水−雪解けの水。
邦雄曰く、黒慈姑(クロクワイ)を採りに、裾をからげて、氷雪をさりさりと踏んで沢に下りる人の、熱い息吹が伝わってくる。平安期の宮中行事となった若菜摘みより、万葉の鄙びた心尽しが新鮮で、生き生きと訴えてくる、と。


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