春の夜のかぎりなるべしあひにあひて‥‥

051129-109-1

Information<2006 市岡高校OB美術展>
2/19 Sun〜2/25 Sat 於/現代画廊・現代クラフトギャラリー


−今日の独言− 私の作業仮説

これを書きつつあるいま、私の横では連れ合いが筑前琵琶の弾き語りを一心にしている。近く一門の年に一度のおさらい会ともいうべき公演が迫っているからだ。手は五弦を弾きつつ、その節にのせて語りの世界を表出する伝承芸能の琵琶は、その手も声も師匠の口移し口真似に終始してその芸は伝えられてゆく。

芸術や芸能における方法論や技法を継承するということは、一般的には、その内懐に深く入り込んで、その内包するものすべてを洩らさず写し取るようにして為されるべきだろう。師資相承とか相伝とかいうものはそういう世界といえる。
だが、もう一つの道があるようにも思う。その懐から脱け出して、対抗論理を得て、その作業仮設のもとに為しうる場合もあるのではないか、ということだ。
このような営為は、ある意味では弁証法的な方法論に通じるのかもしれない。

私が主宰する四方館では身体表現を基軸としており、それはもっぱらImprovisation−即興−をベースにしていることは先刻ご承知の向きもあろうかと思うが、その作業仮説について簡単に触れておきたい。
一言でいうならば、私がめざす即興表現の地平は蕉風俳諧の「連句」の如きありようにある。
この動機となる根拠を与えてくれたのは、もうずいぶん昔のことだが、安東次男氏の「芭蕉七部集評釈」という著書に偶々めぐりあったことから発している。
連句による「歌仙」を巻くには「連衆」という同好仲間が一堂に会して「座」を組む。その場合、たった二人の場合もあれば、五人、六人となる場合もある。実際、「猿蓑」などに代表される芭蕉七部集では二人から六人で座を組み歌仙が巻かれている。
さしあたり連衆の人数はどうあれ、発句の五七五に始まり、七七と脇句が打ち添えられ、第三句の五七五は相伴の位とされ、転調・変化をはかる、というように打ち連ね、初の折を表六句と裏十二句の十八句、名残りの折ともいわれる二の折は表十二句と裏六句の十八句、計三十六句で成り立つのが「歌仙」の形式で、四つの折からなる百韻連歌連句の略式ということになる。
約束事はいくつかある。月の句は名残の裏を除く各折の表・裏に一つずつ計三句とされ、花の句は各折の裏に一つずつ計二句とされる。さらには春や秋の句は各々三句以上続け五句までとし、それに対して夏や冬の句は三句を限りとする、などである。
ざっとこのようにして、座に集った連衆が発句に始まり、丁々発止と即吟にて句を付け合い連ねて歌仙を巻くのだが、我々のImprovisation−即興による身体表象が表現世界として成り立つとすれば、この連句作法にも似た営為のうちにあるのではないか、連歌連句の歌仙を成り立たしめる技法は我々の即興世界の方法論として換骨奪胎しうるのではないか、というのが私の作業仮説の出発点だったということである。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−11>
 春の夜のかぎりなるべしあひにあひて月もおぼろに梅もかをれる  木下長嘯子

挙白集、春、月前梅。
あひにあひて−合ひの強調用法、ぴったり合うこと、嵌まること。
邦雄曰く、春夜は梅に月、これを極限の美と見る宣言する。安土桃山末期に現れた突然変異的歌人長嘯子は若狭小浜の領主で、秀吉の北政所の甥にあたる武人であった。30歳頃世を捨てて京の東山あたりに隠棲、文に生きる。京極為兼や正徹に私淑した歌風は新鮮奔放、と。


 有明の月は涙にくもれども見し世に似たる梅が香ぞする  後鳥羽院下野

新勅撰集、雑一、題知らず。
見し世に似たる−嘗ての在りし世、最愛の人と過したあの時にも似て、ほどの意か。
邦雄曰く、人生のとある春の日を回想して、消え残る月は涙にうるむ。「見し世」とは簡潔で底知れぬ深みを覗かせる歌語だ。後鳥羽院側近の筆頭、源家長の妻である下野は、歌才夫を凌ぎ、院遠島の後も歌合に詠草を奉った。「梅が香」は彼女の最良の歌の一つであろう、と。

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